2015年の本

結局一本もエントリを書かないまま2015年の暮れを迎えたが、去年同様、読んだ本、買った本などの感想を並べて一年の締めとしたい。

昨年は順不同、一冊ごとの紹介としたが、今回はある程度自分の関心分野をもとにまとめることとした。

■政治外交史
今年は戦後日本外交史研究でとりわけ注目すべき二冊が刊行された。武田悠『「経済大国」日本の対米協調―安保・経済・原子力をめぐる試行錯誤、1975〜1981年』と、白鳥潤一郎『「経済大国」日本の外交―エネルギー資源外交の形成 1967〜1974年』である。いずれもGNPで世界二位の経済大国となり、また沖縄返還日中国交正常化という「戦後処理」の最終課題を終えつつある時代の日本外交を描く、本格的な歴史研究である。武田本は日米関係を、白鳥本は日本外交を中心の分析対象とするものだが、ジャーナリズムや政治学的分析の手にゆだねられていた分野がいよいよ一次史料をベースにした分析の対象になったという点というのは、素朴な意味でも歴史研究の進展を感じさせるものだった。

武田本は副題どおり三分野での日米関係の対立と協調を描いているが、米国史料をベースに描かれる(特に安保、経済での)対日要求の論理の揺れ動きは、過去の研究手法からは明らかにしえなかったものであり、実に細密で読み応えがある。

また、白鳥本は60年代以後、エネルギー消費国である日本がいかなる形でエネルギー危機に備え、第一次オイル・ショックという実際の危機に対処したかを描いている。事務レベルが60年代からこのようなトレンドを把握し、事前準備を進めていた様子、そのような準備がオイル・ショックという大事件において政治レベルのパワフルな動きと絡み合い、どのようなアウトプットを生み出したのか、これを余すことなく描いている。「平時」にどのように外交政策が蓄積され、それが「非常時」にどのような形で現れるのか、外交政策ということを考える意味でも興味深い一冊であった。

戦後処理を終えた日本が、国際社会とどのように向き合うかを模索した70年代以後についての最新の研究成果であり、これまでの戦後日本外交史研究にはなかった地平に挑戦した二冊だったのだと思う。こうした歴史研究を取り込む形で通史も再構成されるべきであろうし、時事評論もなされるべきであろう。

他にも戦後外交史では、庄司貴由『自衛隊海外派遣と日本外交―冷戦後における人的貢献の模索』石井修『覇権の翳り―米国のアジア政策とは何だったのか』佐橋亮『共存の模索― アメリカと「二つの中国」の冷戦史』が出た。庄司本は情報公開請求によって文民の選挙監視団派遣、国連平和維持活動参加、更にイラクへの自衛隊派遣など、冷戦後の日本外交の新たな動きを実証的に描いた先駆的業績となった。石井本は『対日政策文書集成』シリーズによって米国国立公文書館文書を日本で容易に使用可能とする、目立たないがすさまじい成果を重ねて来た著者が近年進めていたニクソン政権期の研究をまとめたもので、書籍としてのまとまりにはやや欠けるが、その旺盛な史料収集意欲、研究意欲に感銘を受けていた身としては、取り上げないわけにはいかなかった。佐橋本は国共内戦からカーター政権期までを扱った、国際政治理論との連携も意識した一冊であり、著者の鮮やかな分析やレトリックが一冊にまとめられるのを待っていた人間としては待望の一冊であった。

覇権の翳り―米国のアジア政策とは何だったのか

覇権の翳り―米国のアジア政策とは何だったのか

共存の模索: アメリカと「二つの中国」の冷戦史

共存の模索: アメリカと「二つの中国」の冷戦史

また編著では宮城大蔵編『戦後日本のアジア外交伊藤信哉・萩原稔編『近代日本の対外認識I』健太郎、河野康子編『自民党政治の源流―事前審査制の史的検証』が刊行された。

宮城本は約10年ごとを区切りとしたテキストであり、最新の成果を反映した読みやすい通史だった。伊藤・萩原本は「対外認識」をテーマとした論文集だったが、特に満洲現地の日本人コミュニティが日本本土にどのような施策を期待していたか、それが「満蒙問題」の解決を看板に掲げる日本政府とどのようなすれ違いを生じていたかを描いた北野剛「戦間期の日本と満洲―田中内閣期の満洲政策の再検討」、ワシントン体制をめぐる日英米の疑心暗鬼を描いた中谷直司「『強いアメリカ』と『弱いアメリカ』の狭間でー『ワシントン体制』への国際政治過程」の二本は、過去にない外交史の分析で、印象に残った。

最後の奥・河野本は、自民党政務調査会に強い力を与えたとされる、政府・与党の各種法案を国会提出前にチェックする「事前審査制」の歴史的展開を分析したもの。その源流は戦前、戦時下にも存在していたこと、また今日述べられるような実態がいつ、どのように定着したのかを描く歴史研究主体の論文集だが、政治学行政学の分野で蓄積されてきた事前審査制についての研究成果を取り込みながらも、国内政治史もいよいよ戦後が本格的な「歴史研究」になったという手ごたえを感じる、テーマについての一貫性がある論文集だった。

戦後日本のアジア外交

戦後日本のアジア外交

近代日本の対外認識I

近代日本の対外認識I

自民党政治の源流―事前審査制の史的検証

自民党政治の源流―事前審査制の史的検証

■戦後70年
1945年の敗戦から70年ということもあり、様々な意味で関連書籍の販売が相次いだ。波多野澄雄『宰相鈴木貫太郎の決断―「聖断」と戦後日本』鈴木貫太郎終戦外交を扱った研究だが、鈴木が戦争継続のポーズを保ちつつ終戦の時機を探る様子、「聖断」というイレギュラーな決断方法が浮上し、更に戦局が悪化していく中で、徐々に議論が集約されていく様子は、まさに決定が作られていく過程という面白さがあった。

さらに、同書後半で触れられる、終戦詔書英米に対する敗北を強調するものであったこと、大陸での中ソとの戦争の幕引きについて曖昧にしていたことは、結果「終戦」がいつだったのかを曖昧なものとしなかったか、という指摘は、『太平洋戦争とアジア外交』で、重光葵の主導した戦時アジア外交が戦後の日本人の意識に残した負の遺産を指摘した波多野先生の面目躍如たるものがあった。

さて、ミーハーであるので、今年は終戦関連の本を他にも何冊か手に取ったが、NHK終戦関連番組のリサーチャーであった吉見直人による終戦史―なぜ決断できなかったのか』はおととし出た一冊だが、波多野本とは違った形で終戦を描いており、これも興味深かった。吉見本は6月の陸軍の梅津美治郎参謀総長による、戦局を絶望視する内奏の時点で終戦の下準備ができていたとする議論を展開し、副題のごとく「終戦をなぜ決断できなかったか」という議論を展開していく。著者の視点では、東郷重徳外相と梅津が主役となり、鈴木の影は薄い。そして、その問いの性格上、指導者たちの責任を追及するものとなっていく。淡々と歴史を描いていく波多野本と同じテーマを扱いながら(そして史料面でも少なからぬ部分を共有しながら)、その重点に差が出ているのは、極めて興味深かった。同書は最近のNHKスペシャルにありがちな、断片的な史料を持ち出して大げさなことを吹聴するようなものではなく(MAGICやULTLAなどの暗号解読史料も活用しているが抑制的)、王道を行く書籍であり、波多野本ともどもおすすめしたい。

宰相鈴木貫太郎の決断――「聖断」と戦後日本 (岩波現代全書)

宰相鈴木貫太郎の決断――「聖断」と戦後日本 (岩波現代全書)

終戦史 なぜ決断できなかったのか

終戦史 なぜ決断できなかったのか

これは戦後70年を記念してだったのかはわからないが、嬉しかった復刊が二つあった。一つは2005年に単行本が出版された下嶋哲朗『平和は「退屈」ですか―元ひめゆり学徒と若者たちの五〇〇日』の文庫化、もう一つは2002年に『諸君!』に掲載された鼎談を書籍化した岡崎久彦北岡伸一坂本多加雄『日本人の歴史観―黒船来航から集団的自衛権まで』である。下嶋本は10代、20代の沖縄在住の若者たちが、同世代で沖縄戦を経験したひめゆり学徒から話を聞き、どのように戦争体験を語り継いでいくかを描いたドキュメンタリーである。まさに安易な「平和学習」を超えることを目指す両者は時にかみ合わず、時に共鳴する。いささか熱量の多い文章でつづられる暗中模索ぶりはひたすらに心を打たれるものだった。10年の時を経て、かつての若者たちが今どのようにしているのかを補足した章がついているのも大変うれしかった。岡崎他本はある意味イデオロギー的には対照的とみられるかもしれないが、保守的でありながらグローバルに歴史を論じうる面々による鼎談であり、この議論のよい部分が後述の談話に継承されたと思う。

さて、戦後70年ということでまたも内閣総理大臣談話が出た。総理大臣談話、及びそのベースになったとされる「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」の報告書は、いずれも広い歴史的視座で日本の正負の責任を論じたものであり、バランスが取れた内容になったと感じられた。「積極的平和主義」という政権の掲げる方向性が結末に来るのもストレスはなく、このように論じざるを得ないのだろう。

ところで、読売新聞政治部『安倍官邸 vs. 習近平など、一部報道によれば、本来今回の談話は閣議決定を行なわず、公明党にも配慮しないもっと右派色の強いものになるはずであったが、それが安保法制をめぐる国会の長期化という中で閣内の一体性を示すため、現行の談話になったという。事実であればあるべき姿にかくして収まった、というなんともいえぬ政局の妙ではあるが、色々な意味で背筋の寒くなる話であった。

安倍官邸vs.習近平  激化する日中外交戦争

安倍官邸vs.習近平 激化する日中外交戦争

また、歴史認識関連では服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識も出た。80年代の歴史教科書問題以に始まる日中韓歴史認識問題を各章別で時系列・ドキュメント形式で扱ったものであり、やや文体は読みづらいが、昨年の木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』ともども、こうした問題を把握する際の基礎的文献になるのだろう。

外交ドキュメント 歴史認識 (岩波新書)

外交ドキュメント 歴史認識 (岩波新書)

■政治、政治、政治
しかし、とにかく政治が騒々しい一年だった。民主主義、立憲主義などの単語が独り歩きする様子が多々見られたが、本年出版された山崎望、山本圭編『ポスト代表制の政治学は代表制(代議制デモクラシー)の限界が様々な面から指摘される中で、デモや熟議デモクラシーなどに象徴される様々な政治的行為と代表制の関係を扱った論文集だった。著者らは代表制を時代遅れと廃棄するのではなく、代表制がこうした新しい取り組みとどのような関係を築いていくのか、という視点で論じており、正直色々考え込んでしまう論文もなくはなかったが、知的な刺激を受けた。

山崎・山本本が大きな政治的潮流と代議制デモクラシーの関係を論じたものであるなら、砂原庸介『民主主義の条件』は、選挙制度を典型に、代議制デモクラシーの根底となる制度や組織のあり方を丁寧に論じたテキスト。実態として、日本にどのような問題があり、どのような改革が可能であるのかを、日本政治の実証研究に従事する著者はわかりやすく解説してくれる。ことに著者が政治を動かす「多数派」を形成するために、政党という組織をどのように確立するのかを論じているのは、重たい課題だろう。

ポスト代表制の政治学 ―デモクラシーの危機に抗して―

ポスト代表制の政治学 ―デモクラシーの危機に抗して―

民主主義の条件

民主主義の条件

上記のように、ある種の思想や制度などに注目した研究、概説書の面で実りの多い一年だったが、一方で結局政治における人間、個人のあり方ではないのか、という少し飽き足らない思いを覚えるところがあった。

そのような気分で積んだままの本の山から選び出した木村俊道『文明と教養の〈政治〉 近代デモクラシー以前の政治思想』は、まったく違った形での政治を描いており、一服の清涼剤となった。「文明」「教養」などと言うといかにも大げさだが、木村本は知性ある人間が、明示、暗黙のマナーを守り、遊戯的・社交的に政治を処理する「実践術」の中で政治が営まれた時代を(しつこいくらい)描いている。それをそのままに待望するのは流石に倒錯だろうが、やたらと騒々しいばかりで「本音」やら何やらが横行する政治が何らかの形で一つの取り戻すべき姿を見た思いがした。「政治」と「教養(Civility)」の関係を扱った同書を媒介に、苅部直『移りゆく「教養」』山崎正和『社交する人間―ホモ・ソシアビリス』を再読したところ、よく理解が進んだことも補記しておきたい。

文明と教養の〈政治〉 近代デモクラシー以前の政治思想 (講談社選書メチエ)

文明と教養の〈政治〉 近代デモクラシー以前の政治思想 (講談社選書メチエ)

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

また、本年は田上雅徳『入門講義 キリスト教と政治』今野元『教皇ベネディクトゥス一六世―「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』の二冊も刊行され、大変興味深く読んだ。田上本は、キリスト教は人間が共に生きることを訴える「共同性」、救済を待つことで、現世を相対化しながら生きることを可能とする「終末意識」という二つの性格を持つことを指摘し、その歴史的展開をキリスト教成立から平易に論じている。

特に興味深かったのは「終末意識」をめぐる変遷で、中世には現世にキリスト教があることの価値を説明しようとした結果、現世を論じることに終始して「終末」が後退し、暗に現状の秩序を肯定する神学が展開したこと、一方宗教改革の時代には「終末」を強調する思想が登場したが、それが現世を放棄し救済を待望するだけの思想にならないよう、慎重な説明がなされたことなどが印象に残った。「キリスト教と政治」という主題そのものに関心を持って読み始めたテキストではあったが、今生きている世界をどう説明し、位置付けるのかという普遍的な問いに通じるものであるように感じられた。

後者は前教皇ベネディクトゥス16世(ベネディクト16世)ことヨーゼフ・ラッツィンガーの伝記的研究。宗教的な伝記ではなく、政治史家の筆によるそれは、ハンチントンの『文明の衝突』をめぐる議論から始まり、保守的価値観の守り手としての教皇の個性を論じるものとなる。「近代的政治理念」が唯一の普遍主義として、世界中のあらゆる「旧弊」を破壊しようと猛威を振るう中で、カトリックとしての一線を守ろうとした人間としてラッツィンガーを描く同書は、(主としてイスラーム過激主義の挑戦によって)「近代的政治理念」が何かと問われた今日、とかく示唆的ではあった。

入門講義 キリスト教と政治

入門講義 キリスト教と政治

以上、テーマ別にまとめてはみたものの、取り上げきれなかった本も多くあるが、年内中に書き上げるという観点からここで筆をおく。大体自分の関心が「政治」という大文字のものにあることもわかったし、色々と発見もある一年だった。

願わくば来年がよりよい年でありますように。