2021年の本

 年末に今年の新刊本の振り返りをするのが個人的な恒例行事となって久しい。今年は多少自分なりに分野という脈絡をつけて扱うこととした。

 

■外交史
 外交史というより防衛・安全保障政策史というカテゴリがふさわしいが、まず取り上げたいのは真田尚剛『「大国」日本の防衛政策―防衛大綱に至る過程 1968~1976年』(吉田書店)千々和泰明『安全保障と防衛力の戦後史1971~2010―「基盤的防衛力構想」の時代』(千倉書房)の二冊である。1976年に初めて策定された「防衛計画の大綱」の策定過程、そして同大綱の基本的考え方として、その後の度重なる改定の後も維持された「基盤的防衛力構想」の実態をそれぞれ分析したものである。
 1980年代から2000年代初頭まで、大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』、広瀬克哉『官僚と軍人』、室山義正『日米安保体制(下)』、田中明彦『安全保障』、佐道明広『戦後日本の防衛と政治』など、70年代以降防衛政策の展開をめぐっては様々な研究が蓄積されてきた。同時代的な情報や、一部の情報源に偏っていた既存の研究に対して、本書は現状活用しうる史料を駆使して、歴史としてこのテーマを解明した点で画期的なものであるといえるだろう。これらの著書のベースとなる個別論文はいくつか読んできたが、先行研究の世界観に慣れ親しんでいた人間としては、政策の形成過程、政策概念の解釈など、様々な点において、そうなのか、という驚きを与えられる部分が大きかった。

 特に「基盤的防衛力構想」が理論的な精緻さを強調するきらいのあった既存の研究に対して、それが多義的な解釈が可能であるがゆえに長期的に基本的考え方として存在し続けたことや、「自主」と「同盟」といった対立軸でなく、防衛力の整備や運用といった防衛政策の実態に即した分析の重要性を指摘する千々和本は、現代的な防衛政策へのインプリケーションも(著者が自覚するように)多く持ち、現代の安全保障政策を理解したい人間にも重要性を持つように感じられた。

 次に日本以外の外交史としては、岩間陽子『核の一九六八年年体制と西ドイツ』(有斐閣寺地功次『アメリカの挫折―「ベトナム戦争」前史としてのラオス紛争』(めこん)が印象に残った。岩間本は西ドイツの誕生から核不拡散条約(NPT)参加に至るまでの、西ドイツの安全保障と核兵器をめぐる葛藤の歴史を扱っている。東西両陣営という次元、米欧関係というNATO内同盟政治の次元、さらに西ドイツ・フランス・イギリスという西欧三大国の次元という、多層的なレイヤーで外交が展開されていった様子が描かれており、その複雑さを興味深く読んだ。本書はこうした外交のみならず、当然ながら軍事技術・軍事戦略としての核兵器の展開がどのようにこうした政策に作用したかにも注意を払っている。この時代のヨーロッパ外交史を牽引した要因の考察としても興味深いものといえるだろう。
 寺地本はアメリカが長期にわたる介入を繰り返しながらもその政策目標を達成できず、やがてベトナム戦争の影に忘れられたラオス介入の歴史を扱ったものである。第一次インドシナ戦争以後、アメリカは社会主義勢力の政治参加、政権奪取を阻止しようと、ラオスへの選挙干渉や軍事援助を執拗に行ない、軍事介入まで検討した。米国側の対応を仔細に描きながら、寺地は1950年代から1962年の「ラオス中立化」までにラオスで繰り広げられた「介入・挫折・撤退」の歴史は、その後のベトナム戦争と同じ軌跡を描いていると指摘し、その重要性に注意を喚起している。空白を埋める歴史研究として興味深く、また著者が終章で論じるアメリカの対外介入のパターンという点でも、興味深く読んだ。岩間、寺地のいずれの著作も、著者が長く関心を抱いていたテーマを一冊にまとめたものであり、それだけに文章の行間を想像する楽しみもある一冊であるといえた。なおインドシナ現代史の関連では、ドイモイに向かい現代に至るベトナム現代政治史のベトナム人ジャーナリストが活写したフイ・ドゥック(中野亜星訳)『ベトナムドイモイと権力』(めこん)も印象に残った。本書は2015年に刊行され、ベトナム戦争以後を描いた『ベトナム:勝利の裏側』(めこん)の続編にあたる本で、前作の刊行以来翻訳を待望していた自分としては嬉しい一冊であった。

 日本外交史については、相次いで出版された幣原喜重郎の評伝を取り上げたい。種稲秀司『幣原喜重郎』(吉川弘文館熊本史雄『幣原喜重郎―国際協調の外政家から占領期の首相へ』(中央公論新社である。これまた自分語りとなるが、日本外交史には比較的関心を持ってきたものの、幣原という人物や幣原外交にさほど関心を抱くことがなかった。かつて岡崎久彦が幣原伝で記した「平和な時代の真面目な秀才」という評価どおりの印象を抱いており(なおこれは岡崎のコンテクストでは高い評価であることを付言する必要がある)、そうした幣原外交がなんとなく座りが悪いように感じていたからである。その後出版された詳細に事績を追った伝記にもおもしろみを感じられず、幣原に飽き足りない印象ばかりを覚えていた。
 しかしながら二つの評伝は良い意味でそうした印象を打ち破ってくれる本であった。双方の力点には異なる部分はあるものの、いずれも外交史料や各種史料に残された幣原の動きや考えを詳細に追うことで、幣原という外政家の持っていた特性、すなわち国際法と語学に通じ、組織人として活躍したという点で、世代を画する外交官であったことを明らかにしてくれている。またそうした特性と同時に、一方でいわゆる「新外交」への態度や、満蒙権益といった政策上の関心については、それ以前に日本外交を担った政治指導者や外交官との連続性のコンテクストに関心を払うべきことを指摘している。
 二つの評伝は、国際社会で求められる振る舞いを理解していく時代の日本外交の担い手として幣原や彼の展開した外交政策を位置づけることができ、教えられるところが多かった。またこのような文脈の中を理解する中で、ポスト幣原世代の外交官たちが、国際法と日本外交のあり方を模索していった外交史として、樋口真魚国際連盟と日本外交―集団安全保障の「再発見」』(東京大学出版会も興味深く読んだ。

 外交官の回顧録では、加藤良三(三好範英編)『日米の絆―元駐米大使 加藤良三回顧録』(吉田書店)も読み応えがあった。同書は読売新聞の連載「時代の証言者」をもとにしたものだが、連載の整理された文章に対して、本書はインタビューの原型を残しており、語りの間合いが感じられるものとなっている。本書は主要政治家や外国要人との関係など、回顧録らしいエピソードに富んでいるが、政策的には著者が中枢で関わった80年代の日米間の同盟管理に関する述懐が特に興味深い。安全保障に関する理解が国内で必ずしも広がっていない時代、他方で防衛力構築には詳細な検討が求められるようになった時代に、その核心部分が極めて限られた人間によって運営されていた様子をうかがうことができるのは、著者の回想ならではといえるだろう。
 他に日本外交史の関係では、大木毅『日独伊三国同盟―「根拠なき確信」と「無責任」の果てに』(KADOKAWAの出版は嬉しい話だった。同書は赤城毅『亡国の本質―日本はなぜ敗戦必至の戦争に突入したのか』(PHP研究所)に全面改訂を施したものだが、日独防共協定の誕生から防共協定強化問題の浮上、漂流を経て三国同盟の締結に至る外交史を歴史読み物というタッチで平易に描いている。そのプロセスの複雑さゆえか、この問題を簡潔に把握できる本が『亡国の本質』以外にないことは常々残念に感じていた。まさにこの課題を解決する再出版であったと感じている。

 また本項目に関連する翻訳書としては、リチャード・オウヴァリー(河野純治・作田昌平訳)『なぜ連合国が勝ったのか?』(楽工社)ポール・ケネディ『イギリス海上覇権の盛衰(上・下)』(中央公論新社が出版されたことが朗報だった。いずれも読みたいと思いながら原著には億劫がって取りかかれない、という状況が長く続いていただけに、いずれも読みやすい翻訳が出たことに感謝した。

 

■政治史
 政治史に関連する著作としては、今年は何をおいても五百旗頭真監修『評伝福田赳夫― 戦後日本の繁栄と安定を求めて』(岩波書店を取り上げないわけにはいかない。その知名度にも関わらず、福田には田中角栄における早坂茂三戸川猪佐武、あるいは大平正芳における伊藤昌哉のように、「語り部」をほとんど持たない政治家であった。福田がいかなる人物で、どのような考えを持っていたのかについて、知りえるものは、自身の回顧録である『回顧九十年』などごくわずかであったと言ってもよいだろう。

 本書の最大の意義は親族から提供された「福田メモ」を用い、また周囲の人物への聞き取りや各種史料の渉猟によって、この戦後保守政治における最大の空白であった福田の全体像に接近したことである。研究者と周囲にあった人物が結束して描き出したその生涯からは、経済・財政政策に長じ国際協調を重視した政策家であったこと、また政治倫理を重んじ、達意の言葉を駆使した政治家であった福田の姿が浮かび上がる。そして福田の存在感の大きさを再確認させ、かつて使われた「保守傍流」という評価が適当でないことも浮き彫りにする。かつて本書の監修者である五百旗頭は渡辺昭夫編『戦後日本の宰相たち』で優れた福田伝を描き、「政策の勝者、政局の敗者」という副題を付している。自分はこの評伝は福田の生涯を描いた優れたスケッチだと感じていたが、監修者自身が本書の「あとがき」においてこの評価をどのように扱っているかも見逃せないところだと感じられた。
 なお本書については多くの書評が出たが、とりわけ国際情報サイト『フォーサイト』9月13日(評者:河野有理)、『UP』2021年9月号東京大学出版会)に掲載されたもの(評者:牧原出)が興味深いものであった。

 また宰相伝としては、1995年に出版され、幣原喜重郎から宮沢喜一までを扱った上記の『戦後日本の宰相たち』の後継を意識した宮城大蔵『平成の宰相たち―指導者16人の肖像』(ミネルヴァ書房も出版された。宇野宗佑から安倍晋三(第二次安倍政権)までの歴代宰相を扱う論文集だが、歴史になりつつある時代を一度歴史として描いた本として、『戦後日本の宰相たち』同様に今後意義を持つ一冊と思われる。

 また、放送大学で使用されたテキストと、放送された講義録を組み合わせた御厨貴牧原出『日本政治史講義―通史と対話』(有斐閣も印象的な一冊だった。本書が印象づけられた理由としては、通史としての内容もさりながら、著者らによるウェビナーの形でテキストの力点を様々に聞く機会があったのが大きかったかもしれない(こうした取組みのうち、現時点でも創発プラットフォームが投稿した動画などは参照可能である)。

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 通史といえば、登川幸太郎『三八式歩兵銃―日本陸軍の七十五年』(筑摩書房も取り上げないわけにはいかない。ちくま学芸文庫入りした同書では、明治の建軍から近代軍としての発展、日露戦争後に始まる模索と停滞、満州事変後の再起、そして滅亡という日本陸軍の盛衰をコンパクトに概観できる。昭和陸軍で幕僚職を歴任し、戦後著述家に転じた著者の記述は陸軍の組織史として読みやすく、同時に職業軍人としての経験に由来するであろう、「戦う集団」としての陸軍に必要だったファクターへの目配り、例えば組織の構成、人材の確保、教義や訓練、兵器、これらの整備計画といった諸要素と全体像との関係がうまく叙述されている点が類書にない特徴であるといえる。ソフトとハードの両面から日本陸軍を振り返ることができる名著といえるだろう。

 政治史関係の著作としては、上記以外には大前信也『事変拡大の政治構造―戦費調達と陸軍、議会、大蔵省』(芙蓉書房出版)も印象に残る一冊だった。本書や日中の軍事的衝突が盧溝橋事件から「北支事変」へ、さらに第二次上海事変の勃発による「支那事変」へと全面戦争化していく中で、政府の戦費調達過程がいかになされたのかという著者ならではの問題を考察している。ただ緻密な実証ということだけでなく、帝国議会の反発を警戒していた陸軍の様子や、野放図の軍事支出を許したとしばしば批判される臨時軍事費特別会計の内部での評価、事変初期に見られた拡大派/不拡大派の政治的位置づけなど、事変期の政治史全体に対しても多くの点でも新しい視点や、解釈の可能性を提供しているように見受けられた。また、荻野富士夫『治安維持法の歴史 Ⅰ 治安維持法の「現場」』(六花出版)も、治安体制の問題を一貫して研究してきた著者ならではの研究といえた。本書では序論で治安維持法研究のこれまでの成果と課題を明らかにし、これまでの研究で欠いていた治安維持法運用の総体を研究することの必要を述べている。著者は今後も全5巻で執筆を予定しているとのことで、引き続き期待したい一冊となった。

 また政治史に関連した人間の評伝として、大木毅『「太平洋の巨鷲」山本五十六―用兵思想からみた真価』(KADOKAWAは、軍人としての山本の実力に焦点を当てた伝記研究であり、丁寧な検証の末にその能力が評価されている。著者の示す「戦略次元において極めて有能、作戦次元では平凡かそれ以下」という評価は、いわゆる山本の評価として必ずしも驚くべきものではないという印象を受ける。しかし軍事的能力をいくつかの階層に区分して論じる本書が採用している手法は、従来あまり整理されないまま論じられてきたきらいのある、山本の軍事的才能をよりクリアに理解する助けになっていると感じられた。著者は人間山本の全体像もいつか描きたいとあとがきで述べているが、その点も楽しみに待ちたい。

 また堀川恵子『暁の宇品―陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(講談社は軍都としての広島を出発点に、そこを拠点とした陸軍の輸送・兵站史として展開していくドキュメンタリーであり、詳細な歴史叙述と読みやすさが印象的だった。久保田哲『明治十四年の政変』(集英社インターナショナルは、政変の意義を政治史的に再解釈しようとする著作で、事件のことを通り一遍にしか知らない人間としては興味深く読んだ。また、大谷健『興亡―電力をめぐる政治と経済』(吉田書店)は、国家管理と民営化に揺れた戦時下から戦後までの電力産業の展開を描いている。こうした領域について適当な著作を知らなかっただけに、その復刊はありがたく感じられる「新古典」であった。

 

■現代政治・国際情勢
 コロナ禍にも関わらず米中・米露関係をはじめとして、国際情勢は一年を通じて騒々しい印象を与えるものだったが、そうした大国間競争を扱った一冊として佐橋亮『米中対立―アメリカの戦略転換と分断される世界』(中央公論新社をまず取り上げざるを得ない。本書は副題のごとく、米中関係を大きく変貌させたアメリカ側の戦略転換がどのように生じたのかを、70年代から現代に至るまでのアメリカの対中認識と政策を仔細に追うことで明らかにしている。本書を読むと、中国問題におけるアメリカの認識についてのパノラマが得られるといって過言ではないだろう。そうした歴史的展開を踏まえた上で、日本に求められる対応もエピローグでは触れられている。

 米中対立の相手方である中国については、2021年が中国共産党の設立から100年を迎える節目の年であったこともあり、いくつか関連する著作が出版された。その中でも高橋伸夫中国共産党の歴史』(慶應義塾大学出版会)はもっとも印象に残るものだった。最新の史料状況と研究を踏まえた歴史学者の描く共産党史は一貫して暴力的で血なまぐさく、同時にそのサバイバルのために変幻自在である。著者が今後について楽観しない記述を行いつつも、ただ権威主義な体制として現体制を見ることへの注意を喚起している点は、印象に残る部分であった。またこれは共産党史ではないが、山口信治『毛沢東の強国化戦略1949―1976』(慶應義塾大学出版会)は、共産中国建国の祖である毛沢東の、安全保障要因を重視する対外認識と急進的な国家建設の連関の歴史を描き、現在の中国の体制の評価についても示唆も与えるものとなっており、興味深く読んだ。

 実は『米中対立』を一読したとき、アメリカ人の中国認識のあまりのぶれの大きさに、アメリカ人に対するシニカルな感情が強まったところがあった。しかしながらこれらの優れた中国共産党論も中国という国をどのように評価するかが難しいことを如実に伝えているところを見て、多少そうした感情が緩和された部分があった。併読の効用と思いたいところである。
 また大国の認識といえば、近年精力的に活動している小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房も見逃せない。ロシア流の軍事理論を踏まえ、そこからロシア流の世界認識を描く本書は、コンパクトでありながらロシアの行動を理解する一つの視点を与えてくれる一冊といえた。

 ロシアといえば、本年も昨年の駒木明義『安倍 vs. プーチン』に続き、第二次安倍政権の日露交渉を描いた著作として、北海道新聞社『消えた「四島返還」―安倍政権 日ロ交渉2800日を追う』(北海道新聞社)鈴木美勝『北方領土交渉史』(筑摩書房が相次いで出版された。いずれも同じテーマを扱いながら、駒木本はロシア側の理論の変遷に、道新本は元四島住民や漁業といった現場の視点に、鈴木本は「政」と「官」の関係や政局など日本政治の中枢の描写など、それぞれに長じた点に差異があり、三つの著作は相補的な関係にあるといえるだろう。なぜこのタイミングであのような動きがあったのか、が自分の関心であったが、そうした描写では政局描写に富んだ鈴木本が最も濃密であり、政治記者としての経験の長さを活かしているように感じられた。また鈴木本は鳩山一郎政権以来の日ソ交渉の歴史的経緯について独特のメリハリをつけながら論じており、まずこの問題に触れるのであれば、同書がもっとも優れているとはいえるかもしれない。三冊は第二次安倍政権の領土交渉のあり方に批判的な点でいずれも共通している。この問題については『外交』や北海道新聞のインタビューで安倍元首相も積極的に自らの行動を弁明しているが、今後もこの交渉は検証にさらされることだろう(リンク1リンク2)。

 政治・安全保障を扱うハイ・ポリティックス的な著作以外でも、いくつか印象深い本が発表された。第一に取り上げるべきは、佐々木貴文『東シナ海―漁民たちの国境紛争』(KADOKAWAである。『漁業と国境』(みすず書房)から個人的に注目をしていた研究者だが、本書では尖閣諸島周辺をはじめとする東シナ海の漁業を扱いながら、国家の領域の最前線にある経済活動=漁業の厳しい実態を説得的に論じている。また安田峰俊『「低度」外国人材―移民焼き畑国家、日本』(KADOKAWAは、日本社会で非熟練労働を担う(またはそこから離脱した)外国人労働者たちの姿と、彼らを送り込むシステムを時にユーモラスに、しかし克明に描いている。いずれも政治外交を直裁に描いているわけではない。しかし日本社会と国際社会の接点ということを否が応でも考えさせられる本であった。また経済関係では、開発協力という政策を実態に即して再検討した佐藤仁『開発協力のつくられ方―自立と依存の生態史』(東京大学出版会が印象に残った。本書はODAなどの開発協力が、案件の策定に関わる援助のドナー国や受け入れ国の政府などの計画のままに実現されていくものではなく、現場やNGOなど、外部要因との相互作用の中でかつて形成されることを明らかにしており、またそうした展開は、ドナー国と受け入れ国間の開発協力の長い歴史的プロセスの中で生じてきたことを明らかにしている。関わるアクターすべてが物事の帰趨を左右する、ということ自体はこのように文章にしてしまうと不思議ではないように思われる。しかし、「計画」とその「実施」という垂直関係を前提とした発想となっている開発分野自体に再考を促すという点で、刺激的な著作と感じられた。

 また他に国際政治に関する本で注目すべきものとしては、リチャード・ハース(上原裕美子訳)『The World(ザ・ワールド) 世界のしくみ』(日本経済新聞出版)が翻訳された。信頼できる書き手の誰でも読める「国際情勢」入門書としては、安定した一冊と言えるだろう。本来翻訳書であれば日本語版ならではの補足や解説、読書案内があるのが親切なようにも感じられたが、そこは欲張りかもしれない。

 

■伝記・回想録
 ここでは上記の中に含めなかった伝記・回想録で印象的だったものを取り上げたい。相沢英之伊藤隆・清家彰敏監修、中澤雄大編)『回顧百年 相沢英之オーラルヒストリー』(かまくら春秋社)はシベリア抑留を経験し、大蔵官僚、衆議院議員として戦後社会を生きた大部のオーラル・ヒストリーであり、高齢時代の証言にも関わらず、情報量は非常に多く、興味深い記述に富んでいる。塩谷隆英『21世紀の人と国土 下河辺淳小伝』(商事法務)は戦後日本の国土開発・国土行政の分野で活躍した異能の官僚・下河辺淳の評伝で、長年下河辺の謦咳に接した著者が、下河辺の史料を駆使して描いた評伝であり、「開発天皇」とも揶揄された著者の取組みの全体像に触れることができる。片山修『山崎正和の遺言』(東洋経済新報社は、長年山崎正和と関わりのあったジャーナリストが「山崎正和の最大の作品(三浦雅士)」であるサントリー文化財団と山崎の関係を扱った評伝である。いずれにしても、有り体にいって「スケールの大きさ」を感じさせる人物たちの評伝であるといえる。これらの本を眺めながら、いずれの人物も近年まで生きていたという事実に、感慨にふけった。

 

■文庫(一部新書)
 歳を重ねていて単純に嬉しいと思えることの一つに、これはおもしろい本だと思っていたものが文庫など手に入れやすい形で刊行されるということがある(人に気兼ねなくすすめることができるのもありがたい)。既に取り上げた以外でそうした気持ちになった本として、A・J・P・テイラー(倉田稔訳)『ハプスブルク帝国1809-1918』(筑摩書房ジョージ ・L・モッセ(佐藤卓己佐藤八寿子訳)『大衆の国民化―ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』(筑摩書房倉沢愛子『増補 女が学者になるとき―インドネシア研究奮闘記』(岩波書店大野伴睦大野伴睦回想録』(中央公論新社の文庫化が今年は印象に残った。文庫以外に新書の形をとったものとしては、安田峰俊『八九六四 完全版― 「天安門事件」から香港デモへ』(KADOKAWA秦郁彦『病気の日本近代史』(小学館もこうした著作として取り上げられるだろう。

 また文庫オリジナル編集本としては、アイザイア・バーリン(松本礼二編)『反啓蒙思想 他二篇』(岩波書店和辻哲郎座談』(中央公論新社が特に関心を引いた。バーリンは「ジョセフ・ド・メストルとファシズムの起源」が適当な解題を添えて読めるのが嬉しく、和辻座談は硬軟あらゆる和辻が読める点で興味深いものだった。

 

■おわりに
 関心を持って読んだ本、あるいはせめてつまみ読みした本を、自分の関心のままに並べるということをしたのが、上記の羅列である。いくつも並べた中でもとりわけ色々考えさせられたのは、幣原の評伝や『日米の絆』、『平成の宰相』たち、日露交渉を扱った二冊など、日本の政治外交を扱った著作であった。今年は米中・米露を中心に大国間の角逐がとにかく激しい一年であったが、そうした国際秩序の中でどのように振る舞いが求められるのか、従来日本外交がどのような「型」を持ち、振る舞ってきたのかということを意識することが少なからずあったからと思われる。
 またコロナ禍に関する本も色々買った記憶があるが、ほとんど読まなかったことに気づかされる。正直メディアに氾濫するコロナ情報に辟易して、そうしたものを避けていたいた部分もあった(なおコロナ関係では本ではないが、谷口功一「夜の街の憲法論―飲食店は自粛要請に従うべきなのか」『VOICE』2021年7月号が、かなり論争的なスタイルであったが、重要な論点を提示していたと感じている。権利というものについて考えさせられる論考であった)。
 今年は今までもおろそかにしているいわゆるポリティカル・サイエンス系の著作はもとより、従来はなるべく意識して読んできた政治思想・理論関係の本も一冊も目を通せていないことがわかる。特に今年は上村剛『権力分立論の誕生―ブリテン帝国の「法の精神」受容』、渡辺浩『明治革命・性・文明―政治思想史の冒険』、平石直昭『福澤諭吉丸山眞男』、善教将大『大阪の選択―なぜ都構想は再び否決されたのか』、松林哲也『政治学と因果推論―比較から見える政治と社会』などなど、興味深い著作が次々出版されたにも関わらず、である。清水雄一朗『原敬』や塩川伸明『国家の解体―ペレストロイカソ連の最期』、ウルリヒ・ヘルベルト(小野寺拓也訳)『第三帝国―ある独裁の歴史』などにも目を通せていないことに気づかされる(そのくせ亀井静香『永田町動物園―日本をダメにした101人』なんて本は読んでいた。時間の使い方に問題がある)。もちろんそれで誰かに責められるようなことはないし、このエントリで取り上げた本はいずれも読む価値のある本だと思ったが、もう少し幅のある読書はできなかったのか。そんな自責の念に襲われるところも若干ある年の暮れであった。