2022年の本

 年末に一年を振り返り、どんな新刊本を読み、何がおもしろかったかを投稿するだけとなって久しい本ブログだが、例年通りその投稿をする。
 今年は少し読書の方法や時間の取り方が変わり、関心のある本をきちんと読む時間を比較的確保できた(とはいえ本リストのとおり、読めなかった本も多い)。また昨年取り上げた本が多くなりすぎてしまったという反省もあったことから、今年はこれらの点に留意して紹介を行うこととした。
 基本的に自分の場合、その時々の関心の束に合わせてまとめていくつかの本を読むことが多い。これを反映して便宜的に「日本政治」「基地問題」「外交史・政治史」「国際政治・比較政治」「回想録・伝記研究」という塊として、印象に残った本を紹介することとしたい。

■日本政治

アジア・パシフィック・イニシアティブ編『検証安倍政権―保守とリアリズムの政治』(文藝春秋[文春新書])
濱本真輔『日本の国会議員―政治改革後の限界と可能性』(中央公論新社[中公新書])
蔵前勝久『自民党の魔力』(朝日新聞出版[朝日新書])

 参院選後は「黄金の三年」が訪れる……という今年前半にあった言説を吹き飛ばすような展開となった日本政治だが、予測可能性が乏しくなる中で、あらためてこれからの日本政治の展開や論点を考えるきっかけになる本は多くあった。

 『検証安倍政権』はアジア・パシフィック・イニシアティブが精力的に刊行している「検証報告書」シリーズの一冊であり、前身の日本再建イニシアティブ時代に刊行した民主党政権 失敗の検証―日本政治は何を活かすか』(中央公論新社[中公新書]、2013年)に続く政権研究となる。長期政権であった第二次安倍政権の権力構造、内外政に関する各種政策の展開と結果が関係者へのヒアリングを行なった研究者らによって論じられており、「第二次安倍政権が何を目指し、何を結果として出したか」を確認し、現状に続く課題を考える意味でも示唆に富む。時事的な政権を論評は、かつてはジャーナリストに多くがゆだねられる仕事だったが、それをより現代的な手法で刷新する一冊だったと感じる。

 政党や議員については、『日本の国会議員』『自民党の魔力』が対照的な手法で日本政治の現在をスケッチしており印象的に残った。『日本の国会議員』は様々なアンケート、統計データ、インタビューを活用して今日の国会議員がどのような背景を持ち、活動しているかを描いており、国会議員の行動の様子を把握することができ興味深い。『自民党の魔力』は新聞記者らしいアプローチによる、自民党を中心とした日本政治スケッチだが、特に地方議員の存在に焦点を当て、紙幅の約半分を割いているのは他にあまり見ない要素で印象的だった。本書には様々なエピソードとともに、「強者をのみ込むブラックホール」「その土地で一番強いやつが自民党」という印象的なフレーズも登場しており、政策といった次元とは別個の自民党の「強さ」、またその融通無碍さを描く本となっている。

 上記三冊は日常的な政治報道では断片的に扱われたり、あるいは関係者やそれを研究する人間にとって暗黙知としてなってしまっていたりする事実を伝える著作として、いずれも貴重なものと感じた。今年も結局どこまでも自民党(よくて公明党を加える程度か)で推移した政治だったが、関連では中北浩爾『自民党―「一強」の実像』(中央公論新社[中公新書]、2017年)も再読した。改めて二冊と同様の意味で価値のある一冊として、未だに意義ある一冊と感じられた。

 

 

基地問題

野添文彬『沖縄県知事―その人生と思想』(新潮社)
山本章子・宮城裕也『日米地位協定の現場を行く―「基地のある街」の現実』(岩波書店
川名晋史編『世界の基地問題と沖縄』(明石書店

 このカテゴリを「沖縄」とするか、「基地問題」とするかは若干考えるところがあったが、以上の三冊が自分の中では一つの連なりとなった。沖縄県知事屋良朝苗から玉城デニーまでの日本復帰後の歴代沖縄県知事の評伝だが、保守・革新といった政治勢力や政策を背景に持つにせよ、地域を代表し、統合する役割を担わざるを得ない県知事というアクターの性質に着目した沖縄現代史であり、そのポジションの難しさを理解する点で参考となった。

 日米地位協定の現場を行く』は、沖縄を基盤とした研究者と、沖縄出身の毎日新聞記者の共著。三沢や岩国をはじめとした日本各地の米軍基地と地位協定運用の実態や、現地の問受け止めを扱っており、米軍基地の集中する沖縄と共通する部分、そうでないもの部分が描かれており、貴重なルポルタージュと感じた。ちなみに共著者の山本氏は日米地位協定改定論の史的背景」(『政策科学・国際関係論集』第22号も本年刊行している。地位協定改定論/運用改善論のこれまでを概観できる研究で、併せて参考となった。

 基地問題について新しい視点を提供してくれるのが、世界各地の米軍基地の展開と課題を整理した『世界の基地問題と沖縄』だった。ドイツ、韓国といった米軍の存在が容易に想起できる地域だけでなく、マイナーな米軍基地も含めて網羅的な国際比較がなされており、新鮮な印象を与える。特に総論である序章「基地と世界」は、米国防総省が公表している基地ネットワークや、展開兵員の推移を整理し、特徴をまとめており、議論の前提を知る上でも一読の価値がある。とりわけ兵員の推移は国際情勢や地域情勢と連関して上下するが、基地施設の推移自体は必ずしもそういう推移はしない、という指摘は興味深く感じられた。また各章は個別の国家・地域に置かれた基地を扱っているが、いずれも結語は「沖縄への含意」とされ、議論に一つのまとまりを維持している。

 

 

■外交史・政治史

鈴木祥『明治日本と海外渡航』(日本評論社
佐々木雄一『リーダーたちの日清戦争』(吉川弘文館
佐々木雄一『近代日本外交史―幕末の開国から太平洋戦争まで』(中央公論新社[中公新書])
湯川勇人『外務省と東アジア秩序の1930年代―東アジア新秩序構想の模索と挫折』(千倉書房)
後藤乾一『日本の南進と大東亜共栄圏』(めこん)
小宮京『語られざる占領下日本―公職追放から「保守本流」へ』(NHK出版[NHKブックス])
板橋拓己『分断の克服 1989-1990 ―統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』(中央公論新社

 「外交史・政治史」、さらに続く「国際政治・比較政治」というカテゴリはいかにも漠然としたくくりだが、歴史的なものとどちらかといえばそうでないものということで便宜的に採用した。

 『明治日本と海外渡航は幕末から明治の条約改正の時期にかけ、日本政府が自国民の海外渡航どのように管理しようとしたのか、それが当時の政府の重要外交課題だった条約改正とどのように相互作用を生じたかを明らかにした研究である。本書は日本人が海外で困窮したり、賎業に従事したりすることで当該国の対日イメージを悪化させることに、日本政府が「国家の体面」という観点から並々ならぬ注意を払っていたこと、移民により国家の体面が傷つくことは、不平等条約の改正に悪影響に必ず悪影響を及ぼすと信じていた日本政府の関係者が渡航管理の改善に奔走した事実を、本書は描いている。当時の政府がここまで「国家の体面」というものに過敏だったというのは興味深い事実であった。

 ヒトやモノの移動の大パノラマを描くというのも歴史の面白さであるが、その動きは政治によってなんらかの左右をされているという事実は単純だが見過ごせない点である。この時期のヒトの移動については移民史研究の蓄積が多々あり、またグローバル・ヒストリーの関心対象にもなっているだろうが、本書は政府側の海外渡航管理政策の展開における政府の認識や判断を再現し、それが重要な外交課題とどのように関連しているかを示した重要な研究であると感じた。

 『リーダーたちの日清戦争は、タイトルどおり伊藤博文陸奥宗光ら主要な政治指導者の対外認識に着目しながら、これまでの研究で様々な解釈がなされてきた開戦過程、戦争指導、三国干渉といった一連の過程を描いた歴史研究である。著者のこれまでの著作にも共通しているが、本書で何よりも印象的なのは、うがった解釈を感じない点である。日清戦争に関する従来の研究は、開戦過程をめぐる論争だけを見てもかなりクセのある歴史解釈が重ねられてきたような印象を受ける。これに対して可能な限りの文献を渉猟し、当事者の認識の錯誤や流動的な状況に左右される思考を再現した上で、恐らくこうであろうと示される著者の解釈にはそうした臭みがなく、妥当なものとして受け入れられる印象を持った。論争的でなかなか研究状況を読み込みづらいテーマについて、こうした平易なモノグラフが投じられるのは、何よりもありがたいと感じられた。

 著者は今年『近代日本外交史』も上梓しているが、こちらも著者が最初の単著である『帝国日本の外交 1894-1922―なぜ版図は拡大したのか』(東京大学出版会、2017年)で示した当時の外交当局の行動フレームワークを適用し描かれた平易な通史で、これもまた印象的だった。

 『外務省と東アジア秩序の1930年代』は現状打破へと向かった満州事変以後の日本外交を扱った研究で、外務省が東アジアにおける新秩序構築と日本にとり死活的な日米関係の両立をどのように試みたのかを検討している。

 特に本書では、「アジア派」とされ、ワシントン体制の打破を思考したとされる有田八郎に着目して議論を展開している。著者は有田が先行研究で論じられていたような九ヵ国条約否定の態度を必ずしもとっていなかったとし、いわゆる日中戦争下の「有田声明」についても、「制限的門戸開放」という態度を示したものであり、日米協調の余地を残していたと論じている。著者は有田の外交路線は外交に対する内政的な制約が強まり、軍との関係から強硬な態度を示さざるを得ない中で展開されたものであり、辛うじて採用し得たマヌーバーであったという解釈を示している。

 当該時期の日本外交は、「太平洋戦争への道」という観点からこれまでも様々な研究が進められてきた分野である。他方で当時の外交史料は散逸・消失するなどしている部分があり、その解明は容易ではない。本書はそのような状況をものともせず、様々な史料を駆使することで指導者たちの認識に接近し、中心的なテーマの解明に挑んだ点で意欲的な研究と感じられた。また個人的には佐藤尚武について、政策指向として通商ブロック結成による資源確保への意欲を示していた点や、擁護から打破へと九ヵ国条約への評価を展開させていた点など、様々な点で有田との連続性・共通性を指摘している部分を興味深く読んだ。

 他方で、このように制約が大きい中で展開された政策の論理を解明することの難しさや、その意義を考えさせられたのも事実であった。特に有田や彼を補佐した当時の外務官僚は「制限的門戸開放」をどこまで実現可能なものと認識していたのかという疑問は禁じえなかった。例えば日中戦争下の日米交渉において、揚子江の部分開放のみで日米関係を維持できると考えていたのか。建前と真意を解明することはいつの時代のことであっても容易ではなく、まして史料状況を考慮すればより困難であると想像はされるが、重要な論点を扱った研究だけにその点についてより感じる部分があった。

 『日本の南進と大東亜共栄圏は、「アジアの基礎知識」というシリーズで刊行されたことからも察せられるように、上記三冊に比べると概説的な性質を持ち、タイトルにある「大東亜共栄圏」より長期のスパン、20世紀初頭から「大東亜共栄圏」までを扱った一冊である。といっても情報量も豊富で、なかなか通読するのも大変な一冊だが、日本・東南アジア関係史について研究を重ねた著者と東南アジアを専門とする出版社の意気込みを感じる一冊であった。

 『語られざる占領下日本』は、占領下の日本政治と、そこに占領軍がもたらした影を論じた一冊である。各章は独立したテーマを扱っているが、特に三木武夫を扱った第2章、『小説吉田学校』の著者として知られる政治評論家・戸川猪佐武田中角栄描写の展開を扱った第4章は戦後史に関心のある人間にとっては必読と言っても過言ではない。

 上記の章はいずれも芦田均内閣の崩壊後、民主自由党吉田茂総裁の内閣総理大臣指名を阻止するため、GHQが山崎猛幹事長の擁立を図った「山崎首班事件」を大きく扱っている。「田中角栄の活躍」が伝説化されたこの事件について、実際の推移がどのようなものであったか、またそこにおいて田中角栄が実際にはどのような振る舞いをしていか(正確にいえば「していなかったか」)を様々な証言から明らかにしており、その読後感は推理小説のようで心地よい興奮があった。

 本書でもう一つ印象的だったのはその研究の手法である。著者はGHQ側の史料に依拠する形で展開されてきた歴史叙述を相対化するために、日本側の史料を用いた研究をとると序章で述べている。それ自体は特に不思議な主張ではないが、実際に著者が主として活用しているのは独自のインタビューや一次史料より、従来から世間に公表されていた新聞・雑誌記事や、追悼文集、回想録である。著者はこれらの情報を周到に積み重ねることで、今日定着した俗説を突き崩し、新たな視角を提供することに成功しており、その手さばきは鮮やかである。本文と注を行きつ戻りつしながら「こんな本があるのか」と興奮する本は久し振りであった。

 ここまでは日本に関連した著作を取り上げたが、最後の『分断の克服 1989-1990』は、ドイツ統一過程におけるドイツ外交史を扱った研究となる。東西ドイツの統一過程において、その対外的側面、つまり統一後の同盟帰属問題や国境問題をめぐる関係国との外交折衝は重要課題であった。本書はこの課題を解決し、西ドイツがいかに「完全な主権」の回復を達成したのかを明らかにするもので、特に史料公開や証言が先行したことにより最重要視されてきたコール・西ドイツ首相と総理府ではなく、ゲンシャー西ドイツ外相と外務省の構想に光を当て、冷戦後世界の起点としてのドイツ統一プロセスを描くことに挑戦している。

 著者はヨーロッパ共通の安全保障を重要視し、東西融和的なビジョンを示したゲンシャーの外交は実際に結実することはなかったものの、様々なタイミングでなされたゲンシャーの働きかけは関係国の判断に作用し、結果的にソ連に統一ドイツのNATO加入を受諾させ、「完全な主権」の回復に重大な役割を果たしたとの評価を下している。冷戦下のドイツに「東西融和」的な外交構想は絶えず存在していた。統一当時もっと和解的な構想を唱道していたゲンシャーを描くことで、統一プロセスが現在語られるものとは幾分違ったものであったことを再現した本書の成果は重要であると感じられた。

 最後に取り上げた『語られざる占領下日本』と『分断の克服』には、ある種の共通点があるように感じている。すなわち当時は自明だったが、その後の歴史展開により定着した解釈により、失われてしまった文脈を再生したという点である。逆を言えば、「小説吉田学校」にせよ、「コール史観」にせよ、ナラティブというものがいかに強固なものか、ということでもあろう。その意味で歴史を振り返ることのおもしろさを再確認できる二冊であった。

 

■国際政治・比較政治

川中豪『競争と秩序―東南アジアにみる民主主義のジレンマ』(白水社
クレイグ・ウィットロック(河野純治訳)『アフガニスタン・ペーパーズ―隠蔽された真実、欺かれた勝利』(岩波書店
マイケル・D・ゴーディン編/G・ジョン・アイケンベリー編(藤原帰一・向和歌奈監訳)『国際共同研究 ヒロシマの時代―原爆投下が変えた世界』(岩波書店
佐野利男『核兵器禁止条約は日本を守れるか―「新しい現実」への正念場』(信山社

 『競争と秩序』は東南アジア五カ国を事例として、「民主主義は自由な競争を必要とするが、競争はともすれば無秩序なものとなる。他方で秩序を重視しすぎれば、権威主義に向かう」という民主主義の競争と秩序のジレンマを扱った研究である。著者は異なる歴史的・制度的背景を持つこれら五つの新興民主主義国でその均衡がどのように崩れたかを、(1)無秩序な競争の激化としての「民主主義の不安定化」(2)秩序維持への傾斜としての「選挙が支える権威主義」(3)制度の機能不全が現れた「民主主義と社会経済的格差」(4)従来と異なる政治動員と利益対立のパターンとしての「パーソナリティと分極化の政治」という四つの事象として取り上げている。

 東南アジア地域の政治にも、比較政治学にも明るくない一読者としては、理論的な比較政治学のアプローチと、東南アジア各国の政治制度の変遷の双方を平易に確認でき、勉強になるだけでなく単純におもしろい一冊であった。これだけ各国の民主主義が直面している困難を分析しつつ、「民主主義の将来に悲観してない」との言葉がある結語にはいささか困惑する部分がなかったといえば嘘となるが、様々な民主主義の形があり、様々な困難があり、またそれらを比較することで解決の糸口を見つけることもできる、という本書の議論は、当たり前の事実に改めて気付かされるところがある一冊であった。

 アフガニスタン・ペーパーズ』は米政府機関が実施したアフガニスタン戦争に関する内部検証資料や、その他関連資料を情報公開請求や訴訟も駆使して収集したワシントン・ポストの調査報道記者によるドキュメントである。要人から末端の軍人までインタビューを行ない、同時並行でこうした政策検証を進めていた米国政府の活力には驚かされるが、そうした能力をも有しているにも関わらず、米国は2001年の初動時点から展望もなくアフガニスタンへ介入をし、多くの判断ミスを犯したことが暴き出されている。愚行の連なりを読み続けるのはただただ気が滅入るが、著者が述べるとおり、渦中にベトナムへの介入の失敗を検証した『ペンタゴン・ペーパーズ』を想起させる一冊であるといえた。

 最後の二冊は核兵器に関連する本である。『国際共同研究 ヒロシマの時代』は原爆投下から75周年を記念して刊行された論文集の翻訳で、核兵器の開発と使用がどのような影響を世界に及ぼしたのかを包括的に論じている。原爆の投下決定自体を扱った第3章(「京都神話―トルーマンが広島について知っていたことと知らなかったこと」)、第4章(「『野獣を相手にしなければならない時には』―人種、イデオロギーと原爆投下の決定」)を興味深く読んだが、今日との関連ではその意義付けを扱った第16章(「二一世紀における核のタブーの遺産」)、第17章(「歴史と核時代における未解決な問い」)も印象的だった。

 核兵器禁止条約は日本を守れるか』は、外務省で長く軍縮問題を扱ってきた外交官が、昨年発効した核兵器禁止条約の有効性を論じつつ、核不拡散条約(NPT)を基盤とした既存の核軍縮・軍備管理との関係をどう考えるかを考察した本である。本書は核兵器禁止条約の実効性や、条約の誕生過程で生じた国際社会の亀裂を問題視し、核兵器禁止条約を批判的に論じていると整理できるが、条約の誕生経緯や、既存の核軍縮交渉の成果と課題もフラットに論じられており、この問題を論じる際の前提知識として非常に役立つという印象を受けた。

 当事者でもある実務家が書いたからこそ現状維持・現状肯定的であると意地の悪い見方もできるだろうが、安全保障と倫理という、どちらも軽視できない課題をどう扱うのか、国際政治に実在するパワーの偏在をどう考えるのか、多国間交渉をどう評価するかという面白さなど、色々考える部分があり刺激的であった。この問題に関心がある際には一読する価値のある本と言えるだろう。

 

■回想録・伝記研究

田島道治古川隆久茶谷誠一・冨永望・河西秀哉・舟橋正真編)『昭和天皇拝謁記―初代宮内庁長官田島道治の記録 拝謁記(1~3)』(岩波書店
黒江哲郎『防衛事務次官冷や汗日記―失敗だらけの役人人生』(朝日新聞出版[朝日新書])
村瀬信也『国際法と向き合う―捨てる神あれば拾う神あり』(東信堂
大木毅『指揮官たちの第二次世界大戦―素顔の将帥列伝』(新潮社)
前田亮介『戦後日本の学知と想像力―〈政治学を読み破った〉先に』(吉田書店)

 昭和天皇拝謁記』は昨年末から刊行され、既に6冊が刊行されているが、1949年2月から1951年10月までを扱った第1巻と第2巻までを読了した。田島道治宮内庁長官というそれまで宮中とつながりのない、アウトサイダーによる昭和天皇との対話の記録は、戦後間もない時期の昭和天皇の個性をあからさまにしており興味深い。率直に戦時下の状況を回顧し、また現代の政治状況を憂慮し、政治にも関与しようとする昭和天皇は、既に定着した「象徴天皇」としての昭和天皇像とは程遠いものといえる。田島との対話を通じて、「大元帥昭和天皇日本国憲法に「馴致」されたのではないか、そういった印象を受ける、刺激的なものだった。

 『防衛事務次官冷や汗日記』国際法と向き合う』は典型的な回想録だが、いくつか読んだ回想録の中ではとりわけ面白かったものだった。前者はもともと若手の公務員向けとしてまとめられた「失敗談」からの仕事論を回想録として出版したもので、内容とユーモアある筆致は久保田勇夫『新装版 役人道入門―組織人のためのメソッド』(中央公論新社[中公新書ラクレ]、2018年)にも通じるものがある。ただ著者の半生と重ねてそうした経験が具体的なエピソードとして語られているため、冷戦の後半期から平和安全法制まで、自衛隊がどのように重要性を増し、変容してきたかを読み取れる回想録となっている。国際法に向き合う』は著名な国際法学者による回想録。小田滋『国際法の現場から』(ミネルヴァ書房、2013年)といい、国際法学者の回想録というのはエネルギッシュさと国際性があり、国際法が全くわからなくても(!)面白いもので、本書もはずれのない一冊だった。

 『指揮官たちの第二次世界大戦第二次世界大戦を戦った軍人たちについて、エピソードや側面に焦点をあてて、その人物を論じた列伝である。取り上げられる人間は、ジョージ・パットンゲオルギー・ジューコフ山口多聞といったよく知られた人物からそうでない人物まで幅広いが、軍事史を専門とする著者がすくい上げるエピソードはどれも興味深い。私的な回想だが、自分の軍事史への関心をかき立てたのは、戦史そのものや兵器ではなく、児島襄の『指揮官』『参謀』や、吉田俊雄の『海軍参謀』といった軍人列伝だったことを想起した。ヒューマン・インタレストに貫かれた本書は、その愉しさを再確認する一冊だった。

 『戦後日本の学知と想像力』はカテゴリに迷うところがあったが、独立したカテゴリを設けるのが難しいことからここに置いた。本書は東京大学御厨貴氏のゼミに参加したかつての学生たちによる、師の古希を記念した論集である。

 もっとも、その内容はただの記念論集として見過ごすわけにはいかないものとなっている。政治学にかかわる部分だけを拾い上げても、坂本義和勝田吉太郎、岡義武、岡義達といった対象を扱った政治学史、「1955年体制」概念の検証、20世紀後半の日本における政治リーダーシップ論の展開と、重要な題材がこれでもかと取り上げられている。B6判で400ページ強という、大部で少し弁当箱のように見える形以上の内容が凝縮された一冊であった。

 

 

■復刊

大井篤『統帥乱れて―北部仏印進駐事件の回想』(中央公論新社[中公文庫])
有田八郎『馬鹿八と人はいう』(中央公論新社[中公文庫])
ジョン・トーランド(向後英一訳/大木毅監訳・解説)『バルジ大作戦』(早川書房

 新刊ではないが、文庫化での名著の復刊はその年の本を語るときに外すべきではないと考えている。今年とりわけ印象的だった復刊を取り上げるとすれば以上の三冊となるだろう。中公文庫の近現代史に関する回想の復刊努力については、感謝してもしすぎることがない。
 また早川書房が今年から開始した戦争ノンフィクションの復刊企画「戦争と人間」は、非常にうれしい企画だった。既に刊行された三冊とも興味深い本といえるが、とりわけバルジ大作戦第二次世界大戦再末期の戦闘を描いた古典の復刊であり、嬉しく感じられた。来年以降もこの企画が順調に続くことを期待したい。

 

 

■おわりに

 本記事で取り上げた書籍(今年刊行された書籍のみカウント)はここまでで25冊となる。冒頭触れたとおり、今年はなるべく絞り込んだつもりだったが、この程度の冊数にはなった。これに最後に二冊加えて本稿を終えたい。

 誰しもそうであろうが時代状況は常に自分の読書傾向や、本の読み方に一定の影響を与える。やはり今年2月のロシアのウクライナに対する侵略と、それが生じた波紋(とりわけ国内の反応)は、ある程度上の世代にとっての湾岸戦争とはこういったものだったのだろうかという印象を抱かされた(直近策定された「国家安全保障戦略」の「国際社会は時代を画する変化に直面している。グローバリゼーションと相互依存のみによって国際社会の平和と発展は保証されないことが、改めて明らかになった」という書き出しには、同意せざるをえないという感覚を覚えている)。

 むろん重大な問題が起きているのはウクライナだけではなく、絶えずそうである。かかる状況下で、何が背景にあるのか、何が日本の行動としてありうるのか、ということに思いを致すところがあり、そういったものが読書傾向にも影響を与えた。そうした意味で、印象に残ったのが、下記の二冊であった。

中西嘉宏『ミャンマー現代史』(岩波書店[岩波新書])
小泉悠『ウクライナ戦争』(筑摩書房[ちくま新書])

 前者は、1988年8月の民主化運動から2021年2月のクーデターに至るミャンマーの現代史を扱い、この約30年間にミャンマーの政治がいかなる形で展開したのか、クーデター後の状況はどのようなものなのか、戦後ミャンマーとは密接な関係を築いてきた日本がなしうる行動は何かを平易に論じている。

 後者は今年2月のロシアの軍事侵攻開始から、9月までの約半年間の軍事情勢について現時点で判明している事実について抑制的に論じている。研究者としての自分が当時どのような情勢判断を行ない、ミスを犯したかといった当事者としての視点が臨場感を与えているだけでなく、軍事理論から見た今後の展望や、日本の安全保障政策への教訓も盛り込まれている。いずれも手軽に読める本でありながら、様々な理解が深まる一冊だった。

 時事的な問題について、しかるべき専門家がしかるべきタイミングで、適切なインプリケーションを盛り込んで発信を行うというのは、容易な仕事ではないと想像される。それを果敢に行っている本であり、そうした本が出されていることにあらためて敬意の念を抱いた年の暮れであった。