2023年の本

 例年通り新刊本の振りかえりである。毎年、書き出しは色々と言い訳を書き連ねるのがならいであるが、2023年は公私ともに色々落ち着かず、読書への差し支えが顕著にあった。評判となった本で買いはしたが読めなかったという本も少なくない。諸般の状況を勘案し、今回は例年より本を絞り込んで取り上げることとした。

 

■日本政治・外交
境家史郎『戦後日本政治史―占領期から「ネオ55年体制」まで』(中央公論新社[中公新書])
中山俊宏『理念の国がきしむとき―オバマ・トランプ・バイデンとアメリカ』(千倉書房)
竹内桂『三木武夫と戦後政治』(吉田書店)

 『戦後日本政治史』は副題通り、約80年の戦後政治史を300頁余りで描ききったもの。著者自身が断わるように、戦後政治理解の「筋書」を読者が得ることを目的とした本で、簡潔で要を得た新書らしい新書という内容となっている。とはいえその記述は無味乾燥どころか特色を明確に持つ。55年体制下の政治について自民党内の派閥対立などより、野党が対抗勢力として結集できなかった点により多くを割いている点、また全体として憲法に由来する保革の激しいイデオロギー対立と、政権交代可能性の低い政党配置を中核とする「ネオ55年体制」への道という見立てを提示している点などはそうした特色といえよう。バランスは十分に保たれているが、この時代に書かれた通史、という性格を強く持った本として印象に残った。

 『理念の国がきしむとき』を日本政治・外交の項に入れるのは一見違和感があるかもしれない。2022年に亡くなった著者が2016年以降発表した時事的論考をまとめたもので、タイトルのとおり採録された論考の多くはアメリカ政治を論じたものである。
 しかしこの項に本書を取り上げたのは、本書に取り上げられた「『衰退するアメリカ』のしぶとさ―日米同盟を『再選択』する」(2016年4月発表)が日本外交論・日米同盟論として優れて印象に残っていたからである。この論文は、アメリカが主導し構築された戦後国際秩序において同国の役割が低下していく中で、日本の目指すべき戦略や果たすべき役割、その中における「日米同盟」の意義を明確に論じたものであった。初出の論文集でこの論文を読んだ頃、私は前年に成立した平和安全法制をめぐる不毛極まりない外交・安保論議に倦んでいたが、慈雨のごとく感じられたのを覚えている。本書で再読してもそうした印象は変わることはなかった。アメリカを日本で論じるという仕事に尽くした、著者の真価を示す論文の一つであったと感じている。

 三木武夫と戦後政治』明治大学所蔵の三木武夫関係資料、のみならず様々な史資料を駆使して三木武夫の政治的生涯を描いた大部の研究。どんな政治家も多面的な存在であるが、三木という人物の経歴を反映した本書の内容は一段と多岐にわたり、通読は容易ではない。しかしながら、理想主義と現実主義の間に生き、しばしば批判者か称賛者の極端な意見で描かれがちだった三木武夫という政治家について、様々な検討のきっかけを与えてくれる本だと感じられた。一昨年に刊行された五百旗頭真監修『評伝福田赳夫― 戦後日本の繁栄と安定を求めて』(岩波書店、2021年)と同様に、戦後政治家論の発展を示す一冊といえよう。

 

■外交史・戦史
岩谷將『盧溝橋事件から日中戦争へ』(東京大学出版会
Wilson D. Miscamble(金谷俊則訳)『日本への原爆投下はなぜ必要だったのか』(幻冬舎メディアコンサルティング
大木毅『歴史・戦史・現代史―実証主義に依拠して』(角川新書)
岩間陽子編『核共有の現実―NATOの経験と日本』(信山社

 『盧溝橋事件から日中戦争へ』は、1937年7月の盧溝橋事件の勃発から第二次上海事変、南京戦とその前後に行われた和平工作と1938年1月の近衛声明(「対手トセス」声明)に至るまでを描いた歴史研究。日中双方の動向に目配りをしながら、軍事衝突という状況下で各アクターが様々な選択を重ね、その相互作用がいかに戦争の長期化をもたらしたかを描いている。中国側の史料公開により、中国側が抗日戦争に関して決して日本に侵略されるがままの受動的な存在ではなく、時折積極性を示していた事実は近年の研究で指摘されていた部分だが、それが日本側の行動とどのように影響しあったかを描いている点は本書の興味深い部分である。また蒋介石の直轄軍の軍事的能力への過大評価が第二次上海事変という状況をもたらしたこと、直轄軍の実際にの作戦上の拙劣さが状況を悪化させたことなど、こうした次元の判断や評価がやはりその後の展開に影響したことに目配りがされている点も無視できない。
 本書の筆致は抑制的で淡々としている。ただ同書の注(その殆どは史料の典拠を示す注である)を見ると日中のみならず米英、ドイツ、フランス、イタリア、ソ連と、関係したアクターの文書を博捜しており、文字通り目を見張るものがある。著者は「はじめに」において、日中戦争理解については様々な断絶があるという説明をした上で以下のように論じている。「そうした場合、取り得る一つの態度は、史料をして語らしめるというものである。しかし、これも個別の史料を選択する以上、不偏不党ではない。できることといえば、できるだけ多くの立場の史料に目を通し、それらを用いて、自身が主観的であることを意識しつつ、客観的な事実を探求する以外にない」(5頁)。これは歴史叙述において極めてオーソドックスな態度と言えなくもない。しかし言うは易く行うは難しであることもまたよく知られていることである。本書はそれを実践している希な例であるといえる。
 本書に不満をあえて言うならば本書の最大の持ち味である抑制的な筆致かもしれない。相互作用によって生じる状況とその変化自体を主体とした描写に対して、本来は状況に翻弄されたアクターに過ぎない蒋介石トリックスターぶりが目立ってしまうような部分の課題はあると思われた(新聞書評などにはそうした「誤読」をしたように思われるものも見られた)。とはいえこれはある意味致し方ないとは言えよう。いずれにせよ読めば読むほど凄みを感じるという一冊であった。

 『日本への原爆投下はなぜ必要だったのか』The Most Controversial Decision: Truman, the Atomic Bombs, and the Defeat of Japanの全訳。原爆投下の解釈については様々な論争が存在するが、本書はいわゆる「正統主義」の観点から、トルーマンアメリカ合衆国大統領としてなぜ原爆投下を決断するに至ったかを簡潔に描いており、米側の意思決定過程を知る際に非常に有益な一冊となっている。
 本書の主張によれば、トルーマンは対日戦争の早期終結を望み、また高額の国家予算を投じた原爆開発計画の意義を示す必要を感じていた(前者に関連して言えばこの観点からトルーマンソ連の対日参戦も期待していた)。こうした極めて内向きな理由によって、原爆投下は決定されたという。日本の降伏要因として原爆のみを強調している点や、その道義性を議論する部分など本書は首肯できない部分もあるが、トルーマンにとって当時の状況がどのように見えていたかについては、今年新版が刊行され、解釈論が先立ちすぎる印象を引き続き与える長谷川毅『暗闘』より説得的であると思われる。

 『歴史・戦史・現代史』は精力的な著述活動を続ける著者が、2019年から23年まで様々な機会に発表した文章をまとめたもの。著者はやはり今年刊行した『戦史の余白』のように、様々な戦史を扱った著作を多数出版しているが、『歴史・戦史・現代史』はあとがきに「様々なベクトルを持つ多数の文章」と書かれているとおり、時事分析から書評、新聞への寄稿やインタビューまで、扱っている内容が幅広い。だがそういった小文集だからこそ軍事史・政治史という、歴史研究において最もクラシックな分野を手掛けてきた著者のスタンスが明確に示されているように感じられる。
 とりわけ歴史研究のあり方を論じた「歴史家が立ち止まるところ」は、歴史小説の創造力のあり方を一方に、実証主義的な歴史学のあり方を逆の一方に置きつつ、本来後者に含まれるはずがなされるべき検証を怠ったものとして「俗流」歴史書を批判しており、副題の「実証主義」とは何かを正面から扱っており興味深い。以下に特に印象に残った部分を引用する。
「歴史家が立ち止まるところで小説家は跳躍するというのが、筆者の持論である。歴史家は自説を組み立て、検証し、史実を確定していく。しかし、研究テーマとなる事象が生起してから今日に至るまで、すべての史料や証言が百パーセント残っているわけではないから、どうしても詰められないところが出てくる。歴史家は立ち止まり、これ以上は断言できないと述べるしかない。だが、小説家は、その場所から跳躍をはじめる。歴史学的に確認された史実を踏まえ、想像力をめぐらせて、そこから先を書きすすめる。このとき、小説家が拠り所とし、また執筆の目的とするのは、深い人間理解であろう。……
(中略)
 ……けばけばしい原色の描写は、ときに読者を幻惑する。一方、味気ない、索漠たる事実は幻滅を感じさせるだけになる恐れもある。しかし、歴史の興趣は、醒めた史料批判にもとづく事実、「つまらなさ」の向こう側にしかないのである。たとえ読者の不満を招こうとも、わからないことはわからないといわざるを得ない。」(172、174頁)
 最も印象に残ったものとしてこの個所を引いたが、本書ははしばしにストイックな歴史への態度が示された文章が登場する。歴史研究に臨む態度の重要性を深く印象づけられた一冊であった。

 『核共有の現実―NATOの経験と日本』は、ウクライナ戦争の勃発後瞬間風速的に盛り上がり、一瞬にして沈静化した(ように見える)「核共有(Nuclear Sharing)」制度について、NATOの実態を検証した論文集である。わかったようでわからない(だからこそ様々な期待が膨らんだ)核共有の歴史的経緯と、その特殊性を明らかにしている本書の各論文を読むと、改めて核兵器という兵器の持つ特殊性を実感せざるを得ないと感じさせられる。門外漢にも平易に書かれた本書の議論を前提とせず、核共有を真剣に論じることは困難になったといえるであろう。

 

■社会
谷口功一『日本の水商売 法哲学者、夜の街を歩く』(PHP研究所
ドナルド・ラムズフェルド(井口耕二訳)『ラムズフェルドの人生訓』(オデッセイコミュニケーションズ)

 『日本の水商売』は「スナック研究会」代表として、スナックを多角的に考察してきた法哲学者によるスナック論である。2021年から22年にかけて、コロナ禍の中で各地のスナックを探訪した『VOICE』の連載をベースとしており、スナックの歩みを振りかえりながら、新型コロナウィルス感染症が「5類」に移行するまでの時期にそれぞれの店がコロナ禍とどのように対峙したのかを明らかにしている。
 乱暴にまとめれば、本書は二つの側面を有しているといえる。一つはコロナをめぐる夜の街の同時代史である。コロナ禍初期から徹底的にマークされた夜の街、その中でも大きな割合を占めるスナックは、「迫害」といって良い扱いを受けた。本書はとりわけクラスターが発生したとされた店がどのような誹謗中傷に晒されたかを関係者の声で明らかにし、行政、そしてマスコミの当時の行動について、検証の必要性を強く訴えている。
 二つ目には、スナックの社会的意義の確認である。日本列島を縦断し、多数の実在の店を扱う本書では、様々な理由でその地にスナックが生まれ、成長していった様子が活き活きと描かれている。そこには自らの地元に商いを生むためスナックなどを幅広く営む「非英雄的起業家」や、地域コミュニティを支えるために生まれたスナックなどが続々と登場する。著者はこうしたスナックのありようから、地元に根を張り、コミュニティを築く人々の重要さに注意を喚起する。通り一遍の「成功」「メリトクラシー」言説に物足りなさを感じるならば、著者のこうした主張には大いに共感するだろう。
 本書を読んだころ、私は本年やはり刊行された、福田和也『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである コロナ禍「名店再訪」から保守再起動へ』(河出書房新社を併読していた。『保守とは~』は、これまでの不摂生がたたり健康を大きく損ない、文筆活動も困難になった福田和也が、コロナ禍にかつて訪れた名店を探訪し、食べ、飲むことで自らの活力を取り戻そうとあがく様子を描いた『サンデー毎日』の連載の書籍化である。そこでは様々な飲食店がコロナ禍に苦しみながら、自らの店を守ろうと努力している様子が描かれており、福田がその姿に強い感銘を受けていることが伺える。同書はこの意味で『日本の水商売』と同じメッセージを発しているといえるだろう*1
 ここまでの説明を読むと非常に堅苦しい本に思えるが、本書は紀行文として極めて優れたものになっている点を同時に取り上げないわけにはいかない。各地の歴史や文化をひもときつつ、その地のスナックのあり方に言及する本書の文章の見事さは類書にないものであるといえる。なお著者は本年、法哲学についての従来の思索をまとめた論文集『立法者・性・文明―境界の法哲学』(白水社)も刊行しているが、同書の「あとがきに代えて」でもこうした著者の文章の魅力を味わうことができる。

 ラムズフェルドの人生訓』は2013年に原著が刊行された、著者が官民の様々な仕事を経る中でメモしてきた、実践的な処世訓の集大成である(本書の存在は溜池通信で知った。8月6日の項を参照)。ある程度自らが歳をとったせいか処世訓のようなものに関心が出てきたところ、それがあのラムズフェルドがまとめたものと言えば、読まずにはいられなかったし、その判断は間違っていなかった。自らのエピソードを交えつつ披露される格言は単純におもしろく、味わい深い。
 このような優れた観察眼を持っていたにも関わらず、政治家としてのラムズフェルドの評価は必ずしも芳しいものではなかった。そのリーダーシップのあり方や判断に対する批判を、説得力を持って示した著作は枚挙に暇がない。そのような人間がこういう興味深い人生訓を示すことができる点を含めて、人間という存在のおもしろさに関心を尽きなくさせるものがあった。

ラムズフェルドの人生訓

ラムズフェルドの人生訓

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■おわりに
 本記事で取り上げた書籍(2023年刊行された書籍のみカウント)はここまでで12冊となる。本の感想というのはやはり書いた方がいいもので、自分がどういった本が好きなのかを再確認するところが多かった。

 いささか後味の悪い終わり方となるが、この観点から「いただけない」と思った本を最後に取り上げて本記事を終える。松里公孝『ウクライナ動乱 ソ連解体から露ウ戦争まで』(筑摩書房[ちくま新書])である。
 本書が興味深い内容を含む本であることはまず指摘しておきたい。ウクライナ政治を専門の一つとして来た著者は、2022年に始まったロシアのウクライナ侵略を、ソ連解体の際の不自然なウクライナの分離・独立、ウクライナの国内統治の混乱による国内分断の深まり、旧ソ連地域を庇護国として扱うことをやめたロシアの態度変化など、様々な形で表出したソ連解体の後始末としての「分離紛争」の一つであると指摘している。著者の指摘が戦争の要因として興味深いものを含んでいるのは事実であろう。個人的には「当時の満州は混乱しており、問題含みであった」と満州事変を正当化する理屈のように読めなくなかったが、とはいえ一般的なウクライナ戦争論に対し、本書がユニークな視点を提供していることは無視できない。
 しかし、本書は極めて書籍としての出来に問題があると言わざるを得ない。約500頁の筆箱のような形状の新書の中には、無数の人名と地名が乱舞し、地図情報の提供は不十分である。文章はぼやき調の脱線も多く、結語に至るまで締まりがない(後述の『週刊読書人』インタビューによれば、「冒険活劇のような軽妙な日本語」とのことだが、文章の自己評価はつくづく困難であると思わざるを得ない)。本書を読むのはひたすら苦痛だった。著者の同僚二名が本書を称賛する書評を新聞に寄せているが、同僚としてのお手盛りか、テーゼのみに関心があり本としての出来に関心を持たなかったのだろうかという疑問を抱かざるを得なかった。
 著者は『週刊読書人』2023年9月29日号の著者インタビューで、「『著者が注をつけることを諦めれば、学術書の内容を新書にすることができ、千円強で読めてお得感がある』というのがちくま新書のリーダーの戦略です」と語り、英語圏で発表した研究を日本語に還元するスタイルとしてこうしたスタイルが今後もありうることを示唆している。編集者自身の言葉でなく、著者の言葉であることを割り引く必要があるだろうが、仮に「お得感」の帰結がこの筆箱であるとしたら、ちくま新書は今後のあり方をよくよく考える必要があるだろう。2024年はあまりこうした本を読みたくないものである。

*1:この点に関する著者の主張は、下記の対談ではより鮮明に理解できるであろう。若田部昌澄・谷口功一「夜の街に集う権力者たち...地方のスナックがもつ“公共圏”としての顔」https://voice.php.co.jp/detail/10370?fbclid=IwAR0N9ccJ0EXI3XFYIvsyjnCpeHonJcfvS597YBT5-tkRFuc2c2C3r1U26UY

2022年の本

 年末に一年を振り返り、どんな新刊本を読み、何がおもしろかったかを投稿するだけとなって久しい本ブログだが、例年通りその投稿をする。
 今年は少し読書の方法や時間の取り方が変わり、関心のある本をきちんと読む時間を比較的確保できた(とはいえ本リストのとおり、読めなかった本も多い)。また昨年取り上げた本が多くなりすぎてしまったという反省もあったことから、今年はこれらの点に留意して紹介を行うこととした。
 基本的に自分の場合、その時々の関心の束に合わせてまとめていくつかの本を読むことが多い。これを反映して便宜的に「日本政治」「基地問題」「外交史・政治史」「国際政治・比較政治」「回想録・伝記研究」という塊として、印象に残った本を紹介することとしたい。

■日本政治

アジア・パシフィック・イニシアティブ編『検証安倍政権―保守とリアリズムの政治』(文藝春秋[文春新書])
濱本真輔『日本の国会議員―政治改革後の限界と可能性』(中央公論新社[中公新書])
蔵前勝久『自民党の魔力』(朝日新聞出版[朝日新書])

 参院選後は「黄金の三年」が訪れる……という今年前半にあった言説を吹き飛ばすような展開となった日本政治だが、予測可能性が乏しくなる中で、あらためてこれからの日本政治の展開や論点を考えるきっかけになる本は多くあった。

 『検証安倍政権』はアジア・パシフィック・イニシアティブが精力的に刊行している「検証報告書」シリーズの一冊であり、前身の日本再建イニシアティブ時代に刊行した民主党政権 失敗の検証―日本政治は何を活かすか』(中央公論新社[中公新書]、2013年)に続く政権研究となる。長期政権であった第二次安倍政権の権力構造、内外政に関する各種政策の展開と結果が関係者へのヒアリングを行なった研究者らによって論じられており、「第二次安倍政権が何を目指し、何を結果として出したか」を確認し、現状に続く課題を考える意味でも示唆に富む。時事的な政権を論評は、かつてはジャーナリストに多くがゆだねられる仕事だったが、それをより現代的な手法で刷新する一冊だったと感じる。

 政党や議員については、『日本の国会議員』『自民党の魔力』が対照的な手法で日本政治の現在をスケッチしており印象的に残った。『日本の国会議員』は様々なアンケート、統計データ、インタビューを活用して今日の国会議員がどのような背景を持ち、活動しているかを描いており、国会議員の行動の様子を把握することができ興味深い。『自民党の魔力』は新聞記者らしいアプローチによる、自民党を中心とした日本政治スケッチだが、特に地方議員の存在に焦点を当て、紙幅の約半分を割いているのは他にあまり見ない要素で印象的だった。本書には様々なエピソードとともに、「強者をのみ込むブラックホール」「その土地で一番強いやつが自民党」という印象的なフレーズも登場しており、政策といった次元とは別個の自民党の「強さ」、またその融通無碍さを描く本となっている。

 上記三冊は日常的な政治報道では断片的に扱われたり、あるいは関係者やそれを研究する人間にとって暗黙知としてなってしまっていたりする事実を伝える著作として、いずれも貴重なものと感じた。今年も結局どこまでも自民党(よくて公明党を加える程度か)で推移した政治だったが、関連では中北浩爾『自民党―「一強」の実像』(中央公論新社[中公新書]、2017年)も再読した。改めて二冊と同様の意味で価値のある一冊として、未だに意義ある一冊と感じられた。

 

 

基地問題

野添文彬『沖縄県知事―その人生と思想』(新潮社)
山本章子・宮城裕也『日米地位協定の現場を行く―「基地のある街」の現実』(岩波書店
川名晋史編『世界の基地問題と沖縄』(明石書店

 このカテゴリを「沖縄」とするか、「基地問題」とするかは若干考えるところがあったが、以上の三冊が自分の中では一つの連なりとなった。沖縄県知事屋良朝苗から玉城デニーまでの日本復帰後の歴代沖縄県知事の評伝だが、保守・革新といった政治勢力や政策を背景に持つにせよ、地域を代表し、統合する役割を担わざるを得ない県知事というアクターの性質に着目した沖縄現代史であり、そのポジションの難しさを理解する点で参考となった。

 日米地位協定の現場を行く』は、沖縄を基盤とした研究者と、沖縄出身の毎日新聞記者の共著。三沢や岩国をはじめとした日本各地の米軍基地と地位協定運用の実態や、現地の問受け止めを扱っており、米軍基地の集中する沖縄と共通する部分、そうでないもの部分が描かれており、貴重なルポルタージュと感じた。ちなみに共著者の山本氏は日米地位協定改定論の史的背景」(『政策科学・国際関係論集』第22号も本年刊行している。地位協定改定論/運用改善論のこれまでを概観できる研究で、併せて参考となった。

 基地問題について新しい視点を提供してくれるのが、世界各地の米軍基地の展開と課題を整理した『世界の基地問題と沖縄』だった。ドイツ、韓国といった米軍の存在が容易に想起できる地域だけでなく、マイナーな米軍基地も含めて網羅的な国際比較がなされており、新鮮な印象を与える。特に総論である序章「基地と世界」は、米国防総省が公表している基地ネットワークや、展開兵員の推移を整理し、特徴をまとめており、議論の前提を知る上でも一読の価値がある。とりわけ兵員の推移は国際情勢や地域情勢と連関して上下するが、基地施設の推移自体は必ずしもそういう推移はしない、という指摘は興味深く感じられた。また各章は個別の国家・地域に置かれた基地を扱っているが、いずれも結語は「沖縄への含意」とされ、議論に一つのまとまりを維持している。

 

 

■外交史・政治史

鈴木祥『明治日本と海外渡航』(日本評論社
佐々木雄一『リーダーたちの日清戦争』(吉川弘文館
佐々木雄一『近代日本外交史―幕末の開国から太平洋戦争まで』(中央公論新社[中公新書])
湯川勇人『外務省と東アジア秩序の1930年代―東アジア新秩序構想の模索と挫折』(千倉書房)
後藤乾一『日本の南進と大東亜共栄圏』(めこん)
小宮京『語られざる占領下日本―公職追放から「保守本流」へ』(NHK出版[NHKブックス])
板橋拓己『分断の克服 1989-1990 ―統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』(中央公論新社

 「外交史・政治史」、さらに続く「国際政治・比較政治」というカテゴリはいかにも漠然としたくくりだが、歴史的なものとどちらかといえばそうでないものということで便宜的に採用した。

 『明治日本と海外渡航は幕末から明治の条約改正の時期にかけ、日本政府が自国民の海外渡航どのように管理しようとしたのか、それが当時の政府の重要外交課題だった条約改正とどのように相互作用を生じたかを明らかにした研究である。本書は日本人が海外で困窮したり、賎業に従事したりすることで当該国の対日イメージを悪化させることに、日本政府が「国家の体面」という観点から並々ならぬ注意を払っていたこと、移民により国家の体面が傷つくことは、不平等条約の改正に悪影響に必ず悪影響を及ぼすと信じていた日本政府の関係者が渡航管理の改善に奔走した事実を、本書は描いている。当時の政府がここまで「国家の体面」というものに過敏だったというのは興味深い事実であった。

 ヒトやモノの移動の大パノラマを描くというのも歴史の面白さであるが、その動きは政治によってなんらかの左右をされているという事実は単純だが見過ごせない点である。この時期のヒトの移動については移民史研究の蓄積が多々あり、またグローバル・ヒストリーの関心対象にもなっているだろうが、本書は政府側の海外渡航管理政策の展開における政府の認識や判断を再現し、それが重要な外交課題とどのように関連しているかを示した重要な研究であると感じた。

 『リーダーたちの日清戦争は、タイトルどおり伊藤博文陸奥宗光ら主要な政治指導者の対外認識に着目しながら、これまでの研究で様々な解釈がなされてきた開戦過程、戦争指導、三国干渉といった一連の過程を描いた歴史研究である。著者のこれまでの著作にも共通しているが、本書で何よりも印象的なのは、うがった解釈を感じない点である。日清戦争に関する従来の研究は、開戦過程をめぐる論争だけを見てもかなりクセのある歴史解釈が重ねられてきたような印象を受ける。これに対して可能な限りの文献を渉猟し、当事者の認識の錯誤や流動的な状況に左右される思考を再現した上で、恐らくこうであろうと示される著者の解釈にはそうした臭みがなく、妥当なものとして受け入れられる印象を持った。論争的でなかなか研究状況を読み込みづらいテーマについて、こうした平易なモノグラフが投じられるのは、何よりもありがたいと感じられた。

 著者は今年『近代日本外交史』も上梓しているが、こちらも著者が最初の単著である『帝国日本の外交 1894-1922―なぜ版図は拡大したのか』(東京大学出版会、2017年)で示した当時の外交当局の行動フレームワークを適用し描かれた平易な通史で、これもまた印象的だった。

 『外務省と東アジア秩序の1930年代』は現状打破へと向かった満州事変以後の日本外交を扱った研究で、外務省が東アジアにおける新秩序構築と日本にとり死活的な日米関係の両立をどのように試みたのかを検討している。

 特に本書では、「アジア派」とされ、ワシントン体制の打破を思考したとされる有田八郎に着目して議論を展開している。著者は有田が先行研究で論じられていたような九ヵ国条約否定の態度を必ずしもとっていなかったとし、いわゆる日中戦争下の「有田声明」についても、「制限的門戸開放」という態度を示したものであり、日米協調の余地を残していたと論じている。著者は有田の外交路線は外交に対する内政的な制約が強まり、軍との関係から強硬な態度を示さざるを得ない中で展開されたものであり、辛うじて採用し得たマヌーバーであったという解釈を示している。

 当該時期の日本外交は、「太平洋戦争への道」という観点からこれまでも様々な研究が進められてきた分野である。他方で当時の外交史料は散逸・消失するなどしている部分があり、その解明は容易ではない。本書はそのような状況をものともせず、様々な史料を駆使することで指導者たちの認識に接近し、中心的なテーマの解明に挑んだ点で意欲的な研究と感じられた。また個人的には佐藤尚武について、政策指向として通商ブロック結成による資源確保への意欲を示していた点や、擁護から打破へと九ヵ国条約への評価を展開させていた点など、様々な点で有田との連続性・共通性を指摘している部分を興味深く読んだ。

 他方で、このように制約が大きい中で展開された政策の論理を解明することの難しさや、その意義を考えさせられたのも事実であった。特に有田や彼を補佐した当時の外務官僚は「制限的門戸開放」をどこまで実現可能なものと認識していたのかという疑問は禁じえなかった。例えば日中戦争下の日米交渉において、揚子江の部分開放のみで日米関係を維持できると考えていたのか。建前と真意を解明することはいつの時代のことであっても容易ではなく、まして史料状況を考慮すればより困難であると想像はされるが、重要な論点を扱った研究だけにその点についてより感じる部分があった。

 『日本の南進と大東亜共栄圏は、「アジアの基礎知識」というシリーズで刊行されたことからも察せられるように、上記三冊に比べると概説的な性質を持ち、タイトルにある「大東亜共栄圏」より長期のスパン、20世紀初頭から「大東亜共栄圏」までを扱った一冊である。といっても情報量も豊富で、なかなか通読するのも大変な一冊だが、日本・東南アジア関係史について研究を重ねた著者と東南アジアを専門とする出版社の意気込みを感じる一冊であった。

 『語られざる占領下日本』は、占領下の日本政治と、そこに占領軍がもたらした影を論じた一冊である。各章は独立したテーマを扱っているが、特に三木武夫を扱った第2章、『小説吉田学校』の著者として知られる政治評論家・戸川猪佐武田中角栄描写の展開を扱った第4章は戦後史に関心のある人間にとっては必読と言っても過言ではない。

 上記の章はいずれも芦田均内閣の崩壊後、民主自由党吉田茂総裁の内閣総理大臣指名を阻止するため、GHQが山崎猛幹事長の擁立を図った「山崎首班事件」を大きく扱っている。「田中角栄の活躍」が伝説化されたこの事件について、実際の推移がどのようなものであったか、またそこにおいて田中角栄が実際にはどのような振る舞いをしていか(正確にいえば「していなかったか」)を様々な証言から明らかにしており、その読後感は推理小説のようで心地よい興奮があった。

 本書でもう一つ印象的だったのはその研究の手法である。著者はGHQ側の史料に依拠する形で展開されてきた歴史叙述を相対化するために、日本側の史料を用いた研究をとると序章で述べている。それ自体は特に不思議な主張ではないが、実際に著者が主として活用しているのは独自のインタビューや一次史料より、従来から世間に公表されていた新聞・雑誌記事や、追悼文集、回想録である。著者はこれらの情報を周到に積み重ねることで、今日定着した俗説を突き崩し、新たな視角を提供することに成功しており、その手さばきは鮮やかである。本文と注を行きつ戻りつしながら「こんな本があるのか」と興奮する本は久し振りであった。

 ここまでは日本に関連した著作を取り上げたが、最後の『分断の克服 1989-1990』は、ドイツ統一過程におけるドイツ外交史を扱った研究となる。東西ドイツの統一過程において、その対外的側面、つまり統一後の同盟帰属問題や国境問題をめぐる関係国との外交折衝は重要課題であった。本書はこの課題を解決し、西ドイツがいかに「完全な主権」の回復を達成したのかを明らかにするもので、特に史料公開や証言が先行したことにより最重要視されてきたコール・西ドイツ首相と総理府ではなく、ゲンシャー西ドイツ外相と外務省の構想に光を当て、冷戦後世界の起点としてのドイツ統一プロセスを描くことに挑戦している。

 著者はヨーロッパ共通の安全保障を重要視し、東西融和的なビジョンを示したゲンシャーの外交は実際に結実することはなかったものの、様々なタイミングでなされたゲンシャーの働きかけは関係国の判断に作用し、結果的にソ連に統一ドイツのNATO加入を受諾させ、「完全な主権」の回復に重大な役割を果たしたとの評価を下している。冷戦下のドイツに「東西融和」的な外交構想は絶えず存在していた。統一当時もっと和解的な構想を唱道していたゲンシャーを描くことで、統一プロセスが現在語られるものとは幾分違ったものであったことを再現した本書の成果は重要であると感じられた。

 最後に取り上げた『語られざる占領下日本』と『分断の克服』には、ある種の共通点があるように感じている。すなわち当時は自明だったが、その後の歴史展開により定着した解釈により、失われてしまった文脈を再生したという点である。逆を言えば、「小説吉田学校」にせよ、「コール史観」にせよ、ナラティブというものがいかに強固なものか、ということでもあろう。その意味で歴史を振り返ることのおもしろさを再確認できる二冊であった。

 

■国際政治・比較政治

川中豪『競争と秩序―東南アジアにみる民主主義のジレンマ』(白水社
クレイグ・ウィットロック(河野純治訳)『アフガニスタン・ペーパーズ―隠蔽された真実、欺かれた勝利』(岩波書店
マイケル・D・ゴーディン編/G・ジョン・アイケンベリー編(藤原帰一・向和歌奈監訳)『国際共同研究 ヒロシマの時代―原爆投下が変えた世界』(岩波書店
佐野利男『核兵器禁止条約は日本を守れるか―「新しい現実」への正念場』(信山社

 『競争と秩序』は東南アジア五カ国を事例として、「民主主義は自由な競争を必要とするが、競争はともすれば無秩序なものとなる。他方で秩序を重視しすぎれば、権威主義に向かう」という民主主義の競争と秩序のジレンマを扱った研究である。著者は異なる歴史的・制度的背景を持つこれら五つの新興民主主義国でその均衡がどのように崩れたかを、(1)無秩序な競争の激化としての「民主主義の不安定化」(2)秩序維持への傾斜としての「選挙が支える権威主義」(3)制度の機能不全が現れた「民主主義と社会経済的格差」(4)従来と異なる政治動員と利益対立のパターンとしての「パーソナリティと分極化の政治」という四つの事象として取り上げている。

 東南アジア地域の政治にも、比較政治学にも明るくない一読者としては、理論的な比較政治学のアプローチと、東南アジア各国の政治制度の変遷の双方を平易に確認でき、勉強になるだけでなく単純におもしろい一冊であった。これだけ各国の民主主義が直面している困難を分析しつつ、「民主主義の将来に悲観してない」との言葉がある結語にはいささか困惑する部分がなかったといえば嘘となるが、様々な民主主義の形があり、様々な困難があり、またそれらを比較することで解決の糸口を見つけることもできる、という本書の議論は、当たり前の事実に改めて気付かされるところがある一冊であった。

 アフガニスタン・ペーパーズ』は米政府機関が実施したアフガニスタン戦争に関する内部検証資料や、その他関連資料を情報公開請求や訴訟も駆使して収集したワシントン・ポストの調査報道記者によるドキュメントである。要人から末端の軍人までインタビューを行ない、同時並行でこうした政策検証を進めていた米国政府の活力には驚かされるが、そうした能力をも有しているにも関わらず、米国は2001年の初動時点から展望もなくアフガニスタンへ介入をし、多くの判断ミスを犯したことが暴き出されている。愚行の連なりを読み続けるのはただただ気が滅入るが、著者が述べるとおり、渦中にベトナムへの介入の失敗を検証した『ペンタゴン・ペーパーズ』を想起させる一冊であるといえた。

 最後の二冊は核兵器に関連する本である。『国際共同研究 ヒロシマの時代』は原爆投下から75周年を記念して刊行された論文集の翻訳で、核兵器の開発と使用がどのような影響を世界に及ぼしたのかを包括的に論じている。原爆の投下決定自体を扱った第3章(「京都神話―トルーマンが広島について知っていたことと知らなかったこと」)、第4章(「『野獣を相手にしなければならない時には』―人種、イデオロギーと原爆投下の決定」)を興味深く読んだが、今日との関連ではその意義付けを扱った第16章(「二一世紀における核のタブーの遺産」)、第17章(「歴史と核時代における未解決な問い」)も印象的だった。

 核兵器禁止条約は日本を守れるか』は、外務省で長く軍縮問題を扱ってきた外交官が、昨年発効した核兵器禁止条約の有効性を論じつつ、核不拡散条約(NPT)を基盤とした既存の核軍縮・軍備管理との関係をどう考えるかを考察した本である。本書は核兵器禁止条約の実効性や、条約の誕生過程で生じた国際社会の亀裂を問題視し、核兵器禁止条約を批判的に論じていると整理できるが、条約の誕生経緯や、既存の核軍縮交渉の成果と課題もフラットに論じられており、この問題を論じる際の前提知識として非常に役立つという印象を受けた。

 当事者でもある実務家が書いたからこそ現状維持・現状肯定的であると意地の悪い見方もできるだろうが、安全保障と倫理という、どちらも軽視できない課題をどう扱うのか、国際政治に実在するパワーの偏在をどう考えるのか、多国間交渉をどう評価するかという面白さなど、色々考える部分があり刺激的であった。この問題に関心がある際には一読する価値のある本と言えるだろう。

 

■回想録・伝記研究

田島道治古川隆久茶谷誠一・冨永望・河西秀哉・舟橋正真編)『昭和天皇拝謁記―初代宮内庁長官田島道治の記録 拝謁記(1~3)』(岩波書店
黒江哲郎『防衛事務次官冷や汗日記―失敗だらけの役人人生』(朝日新聞出版[朝日新書])
村瀬信也『国際法と向き合う―捨てる神あれば拾う神あり』(東信堂
大木毅『指揮官たちの第二次世界大戦―素顔の将帥列伝』(新潮社)
前田亮介『戦後日本の学知と想像力―〈政治学を読み破った〉先に』(吉田書店)

 昭和天皇拝謁記』は昨年末から刊行され、既に6冊が刊行されているが、1949年2月から1951年10月までを扱った第1巻と第2巻までを読了した。田島道治宮内庁長官というそれまで宮中とつながりのない、アウトサイダーによる昭和天皇との対話の記録は、戦後間もない時期の昭和天皇の個性をあからさまにしており興味深い。率直に戦時下の状況を回顧し、また現代の政治状況を憂慮し、政治にも関与しようとする昭和天皇は、既に定着した「象徴天皇」としての昭和天皇像とは程遠いものといえる。田島との対話を通じて、「大元帥昭和天皇日本国憲法に「馴致」されたのではないか、そういった印象を受ける、刺激的なものだった。

 『防衛事務次官冷や汗日記』国際法と向き合う』は典型的な回想録だが、いくつか読んだ回想録の中ではとりわけ面白かったものだった。前者はもともと若手の公務員向けとしてまとめられた「失敗談」からの仕事論を回想録として出版したもので、内容とユーモアある筆致は久保田勇夫『新装版 役人道入門―組織人のためのメソッド』(中央公論新社[中公新書ラクレ]、2018年)にも通じるものがある。ただ著者の半生と重ねてそうした経験が具体的なエピソードとして語られているため、冷戦の後半期から平和安全法制まで、自衛隊がどのように重要性を増し、変容してきたかを読み取れる回想録となっている。国際法に向き合う』は著名な国際法学者による回想録。小田滋『国際法の現場から』(ミネルヴァ書房、2013年)といい、国際法学者の回想録というのはエネルギッシュさと国際性があり、国際法が全くわからなくても(!)面白いもので、本書もはずれのない一冊だった。

 『指揮官たちの第二次世界大戦第二次世界大戦を戦った軍人たちについて、エピソードや側面に焦点をあてて、その人物を論じた列伝である。取り上げられる人間は、ジョージ・パットンゲオルギー・ジューコフ山口多聞といったよく知られた人物からそうでない人物まで幅広いが、軍事史を専門とする著者がすくい上げるエピソードはどれも興味深い。私的な回想だが、自分の軍事史への関心をかき立てたのは、戦史そのものや兵器ではなく、児島襄の『指揮官』『参謀』や、吉田俊雄の『海軍参謀』といった軍人列伝だったことを想起した。ヒューマン・インタレストに貫かれた本書は、その愉しさを再確認する一冊だった。

 『戦後日本の学知と想像力』はカテゴリに迷うところがあったが、独立したカテゴリを設けるのが難しいことからここに置いた。本書は東京大学御厨貴氏のゼミに参加したかつての学生たちによる、師の古希を記念した論集である。

 もっとも、その内容はただの記念論集として見過ごすわけにはいかないものとなっている。政治学にかかわる部分だけを拾い上げても、坂本義和勝田吉太郎、岡義武、岡義達といった対象を扱った政治学史、「1955年体制」概念の検証、20世紀後半の日本における政治リーダーシップ論の展開と、重要な題材がこれでもかと取り上げられている。B6判で400ページ強という、大部で少し弁当箱のように見える形以上の内容が凝縮された一冊であった。

 

 

■復刊

大井篤『統帥乱れて―北部仏印進駐事件の回想』(中央公論新社[中公文庫])
有田八郎『馬鹿八と人はいう』(中央公論新社[中公文庫])
ジョン・トーランド(向後英一訳/大木毅監訳・解説)『バルジ大作戦』(早川書房

 新刊ではないが、文庫化での名著の復刊はその年の本を語るときに外すべきではないと考えている。今年とりわけ印象的だった復刊を取り上げるとすれば以上の三冊となるだろう。中公文庫の近現代史に関する回想の復刊努力については、感謝してもしすぎることがない。
 また早川書房が今年から開始した戦争ノンフィクションの復刊企画「戦争と人間」は、非常にうれしい企画だった。既に刊行された三冊とも興味深い本といえるが、とりわけバルジ大作戦第二次世界大戦再末期の戦闘を描いた古典の復刊であり、嬉しく感じられた。来年以降もこの企画が順調に続くことを期待したい。

 

 

■おわりに

 本記事で取り上げた書籍(今年刊行された書籍のみカウント)はここまでで25冊となる。冒頭触れたとおり、今年はなるべく絞り込んだつもりだったが、この程度の冊数にはなった。これに最後に二冊加えて本稿を終えたい。

 誰しもそうであろうが時代状況は常に自分の読書傾向や、本の読み方に一定の影響を与える。やはり今年2月のロシアのウクライナに対する侵略と、それが生じた波紋(とりわけ国内の反応)は、ある程度上の世代にとっての湾岸戦争とはこういったものだったのだろうかという印象を抱かされた(直近策定された「国家安全保障戦略」の「国際社会は時代を画する変化に直面している。グローバリゼーションと相互依存のみによって国際社会の平和と発展は保証されないことが、改めて明らかになった」という書き出しには、同意せざるをえないという感覚を覚えている)。

 むろん重大な問題が起きているのはウクライナだけではなく、絶えずそうである。かかる状況下で、何が背景にあるのか、何が日本の行動としてありうるのか、ということに思いを致すところがあり、そういったものが読書傾向にも影響を与えた。そうした意味で、印象に残ったのが、下記の二冊であった。

中西嘉宏『ミャンマー現代史』(岩波書店[岩波新書])
小泉悠『ウクライナ戦争』(筑摩書房[ちくま新書])

 前者は、1988年8月の民主化運動から2021年2月のクーデターに至るミャンマーの現代史を扱い、この約30年間にミャンマーの政治がいかなる形で展開したのか、クーデター後の状況はどのようなものなのか、戦後ミャンマーとは密接な関係を築いてきた日本がなしうる行動は何かを平易に論じている。

 後者は今年2月のロシアの軍事侵攻開始から、9月までの約半年間の軍事情勢について現時点で判明している事実について抑制的に論じている。研究者としての自分が当時どのような情勢判断を行ない、ミスを犯したかといった当事者としての視点が臨場感を与えているだけでなく、軍事理論から見た今後の展望や、日本の安全保障政策への教訓も盛り込まれている。いずれも手軽に読める本でありながら、様々な理解が深まる一冊だった。

 時事的な問題について、しかるべき専門家がしかるべきタイミングで、適切なインプリケーションを盛り込んで発信を行うというのは、容易な仕事ではないと想像される。それを果敢に行っている本であり、そうした本が出されていることにあらためて敬意の念を抱いた年の暮れであった。

2021年の本

 年末に今年の新刊本の振り返りをするのが個人的な恒例行事となって久しい。今年は多少自分なりに分野という脈絡をつけて扱うこととした。

 

■外交史
 外交史というより防衛・安全保障政策史というカテゴリがふさわしいが、まず取り上げたいのは真田尚剛『「大国」日本の防衛政策―防衛大綱に至る過程 1968~1976年』(吉田書店)千々和泰明『安全保障と防衛力の戦後史1971~2010―「基盤的防衛力構想」の時代』(千倉書房)の二冊である。1976年に初めて策定された「防衛計画の大綱」の策定過程、そして同大綱の基本的考え方として、その後の度重なる改定の後も維持された「基盤的防衛力構想」の実態をそれぞれ分析したものである。
 1980年代から2000年代初頭まで、大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』、広瀬克哉『官僚と軍人』、室山義正『日米安保体制(下)』、田中明彦『安全保障』、佐道明広『戦後日本の防衛と政治』など、70年代以降防衛政策の展開をめぐっては様々な研究が蓄積されてきた。同時代的な情報や、一部の情報源に偏っていた既存の研究に対して、本書は現状活用しうる史料を駆使して、歴史としてこのテーマを解明した点で画期的なものであるといえるだろう。これらの著書のベースとなる個別論文はいくつか読んできたが、先行研究の世界観に慣れ親しんでいた人間としては、政策の形成過程、政策概念の解釈など、様々な点において、そうなのか、という驚きを与えられる部分が大きかった。

 特に「基盤的防衛力構想」が理論的な精緻さを強調するきらいのあった既存の研究に対して、それが多義的な解釈が可能であるがゆえに長期的に基本的考え方として存在し続けたことや、「自主」と「同盟」といった対立軸でなく、防衛力の整備や運用といった防衛政策の実態に即した分析の重要性を指摘する千々和本は、現代的な防衛政策へのインプリケーションも(著者が自覚するように)多く持ち、現代の安全保障政策を理解したい人間にも重要性を持つように感じられた。

 次に日本以外の外交史としては、岩間陽子『核の一九六八年年体制と西ドイツ』(有斐閣寺地功次『アメリカの挫折―「ベトナム戦争」前史としてのラオス紛争』(めこん)が印象に残った。岩間本は西ドイツの誕生から核不拡散条約(NPT)参加に至るまでの、西ドイツの安全保障と核兵器をめぐる葛藤の歴史を扱っている。東西両陣営という次元、米欧関係というNATO内同盟政治の次元、さらに西ドイツ・フランス・イギリスという西欧三大国の次元という、多層的なレイヤーで外交が展開されていった様子が描かれており、その複雑さを興味深く読んだ。本書はこうした外交のみならず、当然ながら軍事技術・軍事戦略としての核兵器の展開がどのようにこうした政策に作用したかにも注意を払っている。この時代のヨーロッパ外交史を牽引した要因の考察としても興味深いものといえるだろう。
 寺地本はアメリカが長期にわたる介入を繰り返しながらもその政策目標を達成できず、やがてベトナム戦争の影に忘れられたラオス介入の歴史を扱ったものである。第一次インドシナ戦争以後、アメリカは社会主義勢力の政治参加、政権奪取を阻止しようと、ラオスへの選挙干渉や軍事援助を執拗に行ない、軍事介入まで検討した。米国側の対応を仔細に描きながら、寺地は1950年代から1962年の「ラオス中立化」までにラオスで繰り広げられた「介入・挫折・撤退」の歴史は、その後のベトナム戦争と同じ軌跡を描いていると指摘し、その重要性に注意を喚起している。空白を埋める歴史研究として興味深く、また著者が終章で論じるアメリカの対外介入のパターンという点でも、興味深く読んだ。岩間、寺地のいずれの著作も、著者が長く関心を抱いていたテーマを一冊にまとめたものであり、それだけに文章の行間を想像する楽しみもある一冊であるといえた。なおインドシナ現代史の関連では、ドイモイに向かい現代に至るベトナム現代政治史のベトナム人ジャーナリストが活写したフイ・ドゥック(中野亜星訳)『ベトナムドイモイと権力』(めこん)も印象に残った。本書は2015年に刊行され、ベトナム戦争以後を描いた『ベトナム:勝利の裏側』(めこん)の続編にあたる本で、前作の刊行以来翻訳を待望していた自分としては嬉しい一冊であった。

 日本外交史については、相次いで出版された幣原喜重郎の評伝を取り上げたい。種稲秀司『幣原喜重郎』(吉川弘文館熊本史雄『幣原喜重郎―国際協調の外政家から占領期の首相へ』(中央公論新社である。これまた自分語りとなるが、日本外交史には比較的関心を持ってきたものの、幣原という人物や幣原外交にさほど関心を抱くことがなかった。かつて岡崎久彦が幣原伝で記した「平和な時代の真面目な秀才」という評価どおりの印象を抱いており(なおこれは岡崎のコンテクストでは高い評価であることを付言する必要がある)、そうした幣原外交がなんとなく座りが悪いように感じていたからである。その後出版された詳細に事績を追った伝記にもおもしろみを感じられず、幣原に飽き足りない印象ばかりを覚えていた。
 しかしながら二つの評伝は良い意味でそうした印象を打ち破ってくれる本であった。双方の力点には異なる部分はあるものの、いずれも外交史料や各種史料に残された幣原の動きや考えを詳細に追うことで、幣原という外政家の持っていた特性、すなわち国際法と語学に通じ、組織人として活躍したという点で、世代を画する外交官であったことを明らかにしてくれている。またそうした特性と同時に、一方でいわゆる「新外交」への態度や、満蒙権益といった政策上の関心については、それ以前に日本外交を担った政治指導者や外交官との連続性のコンテクストに関心を払うべきことを指摘している。
 二つの評伝は、国際社会で求められる振る舞いを理解していく時代の日本外交の担い手として幣原や彼の展開した外交政策を位置づけることができ、教えられるところが多かった。またこのような文脈の中を理解する中で、ポスト幣原世代の外交官たちが、国際法と日本外交のあり方を模索していった外交史として、樋口真魚国際連盟と日本外交―集団安全保障の「再発見」』(東京大学出版会も興味深く読んだ。

 外交官の回顧録では、加藤良三(三好範英編)『日米の絆―元駐米大使 加藤良三回顧録』(吉田書店)も読み応えがあった。同書は読売新聞の連載「時代の証言者」をもとにしたものだが、連載の整理された文章に対して、本書はインタビューの原型を残しており、語りの間合いが感じられるものとなっている。本書は主要政治家や外国要人との関係など、回顧録らしいエピソードに富んでいるが、政策的には著者が中枢で関わった80年代の日米間の同盟管理に関する述懐が特に興味深い。安全保障に関する理解が国内で必ずしも広がっていない時代、他方で防衛力構築には詳細な検討が求められるようになった時代に、その核心部分が極めて限られた人間によって運営されていた様子をうかがうことができるのは、著者の回想ならではといえるだろう。
 他に日本外交史の関係では、大木毅『日独伊三国同盟―「根拠なき確信」と「無責任」の果てに』(KADOKAWAの出版は嬉しい話だった。同書は赤城毅『亡国の本質―日本はなぜ敗戦必至の戦争に突入したのか』(PHP研究所)に全面改訂を施したものだが、日独防共協定の誕生から防共協定強化問題の浮上、漂流を経て三国同盟の締結に至る外交史を歴史読み物というタッチで平易に描いている。そのプロセスの複雑さゆえか、この問題を簡潔に把握できる本が『亡国の本質』以外にないことは常々残念に感じていた。まさにこの課題を解決する再出版であったと感じている。

 また本項目に関連する翻訳書としては、リチャード・オウヴァリー(河野純治・作田昌平訳)『なぜ連合国が勝ったのか?』(楽工社)ポール・ケネディ『イギリス海上覇権の盛衰(上・下)』(中央公論新社が出版されたことが朗報だった。いずれも読みたいと思いながら原著には億劫がって取りかかれない、という状況が長く続いていただけに、いずれも読みやすい翻訳が出たことに感謝した。

 

■政治史
 政治史に関連する著作としては、今年は何をおいても五百旗頭真監修『評伝福田赳夫― 戦後日本の繁栄と安定を求めて』(岩波書店を取り上げないわけにはいかない。その知名度にも関わらず、福田には田中角栄における早坂茂三戸川猪佐武、あるいは大平正芳における伊藤昌哉のように、「語り部」をほとんど持たない政治家であった。福田がいかなる人物で、どのような考えを持っていたのかについて、知りえるものは、自身の回顧録である『回顧九十年』などごくわずかであったと言ってもよいだろう。

 本書の最大の意義は親族から提供された「福田メモ」を用い、また周囲の人物への聞き取りや各種史料の渉猟によって、この戦後保守政治における最大の空白であった福田の全体像に接近したことである。研究者と周囲にあった人物が結束して描き出したその生涯からは、経済・財政政策に長じ国際協調を重視した政策家であったこと、また政治倫理を重んじ、達意の言葉を駆使した政治家であった福田の姿が浮かび上がる。そして福田の存在感の大きさを再確認させ、かつて使われた「保守傍流」という評価が適当でないことも浮き彫りにする。かつて本書の監修者である五百旗頭は渡辺昭夫編『戦後日本の宰相たち』で優れた福田伝を描き、「政策の勝者、政局の敗者」という副題を付している。自分はこの評伝は福田の生涯を描いた優れたスケッチだと感じていたが、監修者自身が本書の「あとがき」においてこの評価をどのように扱っているかも見逃せないところだと感じられた。
 なお本書については多くの書評が出たが、とりわけ国際情報サイト『フォーサイト』9月13日(評者:河野有理)、『UP』2021年9月号東京大学出版会)に掲載されたもの(評者:牧原出)が興味深いものであった。

 また宰相伝としては、1995年に出版され、幣原喜重郎から宮沢喜一までを扱った上記の『戦後日本の宰相たち』の後継を意識した宮城大蔵『平成の宰相たち―指導者16人の肖像』(ミネルヴァ書房も出版された。宇野宗佑から安倍晋三(第二次安倍政権)までの歴代宰相を扱う論文集だが、歴史になりつつある時代を一度歴史として描いた本として、『戦後日本の宰相たち』同様に今後意義を持つ一冊と思われる。

 また、放送大学で使用されたテキストと、放送された講義録を組み合わせた御厨貴牧原出『日本政治史講義―通史と対話』(有斐閣も印象的な一冊だった。本書が印象づけられた理由としては、通史としての内容もさりながら、著者らによるウェビナーの形でテキストの力点を様々に聞く機会があったのが大きかったかもしれない(こうした取組みのうち、現時点でも創発プラットフォームが投稿した動画などは参照可能である)。

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 通史といえば、登川幸太郎『三八式歩兵銃―日本陸軍の七十五年』(筑摩書房も取り上げないわけにはいかない。ちくま学芸文庫入りした同書では、明治の建軍から近代軍としての発展、日露戦争後に始まる模索と停滞、満州事変後の再起、そして滅亡という日本陸軍の盛衰をコンパクトに概観できる。昭和陸軍で幕僚職を歴任し、戦後著述家に転じた著者の記述は陸軍の組織史として読みやすく、同時に職業軍人としての経験に由来するであろう、「戦う集団」としての陸軍に必要だったファクターへの目配り、例えば組織の構成、人材の確保、教義や訓練、兵器、これらの整備計画といった諸要素と全体像との関係がうまく叙述されている点が類書にない特徴であるといえる。ソフトとハードの両面から日本陸軍を振り返ることができる名著といえるだろう。

 政治史関係の著作としては、上記以外には大前信也『事変拡大の政治構造―戦費調達と陸軍、議会、大蔵省』(芙蓉書房出版)も印象に残る一冊だった。本書や日中の軍事的衝突が盧溝橋事件から「北支事変」へ、さらに第二次上海事変の勃発による「支那事変」へと全面戦争化していく中で、政府の戦費調達過程がいかになされたのかという著者ならではの問題を考察している。ただ緻密な実証ということだけでなく、帝国議会の反発を警戒していた陸軍の様子や、野放図の軍事支出を許したとしばしば批判される臨時軍事費特別会計の内部での評価、事変初期に見られた拡大派/不拡大派の政治的位置づけなど、事変期の政治史全体に対しても多くの点でも新しい視点や、解釈の可能性を提供しているように見受けられた。また、荻野富士夫『治安維持法の歴史 Ⅰ 治安維持法の「現場」』(六花出版)も、治安体制の問題を一貫して研究してきた著者ならではの研究といえた。本書では序論で治安維持法研究のこれまでの成果と課題を明らかにし、これまでの研究で欠いていた治安維持法運用の総体を研究することの必要を述べている。著者は今後も全5巻で執筆を予定しているとのことで、引き続き期待したい一冊となった。

 また政治史に関連した人間の評伝として、大木毅『「太平洋の巨鷲」山本五十六―用兵思想からみた真価』(KADOKAWAは、軍人としての山本の実力に焦点を当てた伝記研究であり、丁寧な検証の末にその能力が評価されている。著者の示す「戦略次元において極めて有能、作戦次元では平凡かそれ以下」という評価は、いわゆる山本の評価として必ずしも驚くべきものではないという印象を受ける。しかし軍事的能力をいくつかの階層に区分して論じる本書が採用している手法は、従来あまり整理されないまま論じられてきたきらいのある、山本の軍事的才能をよりクリアに理解する助けになっていると感じられた。著者は人間山本の全体像もいつか描きたいとあとがきで述べているが、その点も楽しみに待ちたい。

 また堀川恵子『暁の宇品―陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(講談社は軍都としての広島を出発点に、そこを拠点とした陸軍の輸送・兵站史として展開していくドキュメンタリーであり、詳細な歴史叙述と読みやすさが印象的だった。久保田哲『明治十四年の政変』(集英社インターナショナルは、政変の意義を政治史的に再解釈しようとする著作で、事件のことを通り一遍にしか知らない人間としては興味深く読んだ。また、大谷健『興亡―電力をめぐる政治と経済』(吉田書店)は、国家管理と民営化に揺れた戦時下から戦後までの電力産業の展開を描いている。こうした領域について適当な著作を知らなかっただけに、その復刊はありがたく感じられる「新古典」であった。

 

■現代政治・国際情勢
 コロナ禍にも関わらず米中・米露関係をはじめとして、国際情勢は一年を通じて騒々しい印象を与えるものだったが、そうした大国間競争を扱った一冊として佐橋亮『米中対立―アメリカの戦略転換と分断される世界』(中央公論新社をまず取り上げざるを得ない。本書は副題のごとく、米中関係を大きく変貌させたアメリカ側の戦略転換がどのように生じたのかを、70年代から現代に至るまでのアメリカの対中認識と政策を仔細に追うことで明らかにしている。本書を読むと、中国問題におけるアメリカの認識についてのパノラマが得られるといって過言ではないだろう。そうした歴史的展開を踏まえた上で、日本に求められる対応もエピローグでは触れられている。

 米中対立の相手方である中国については、2021年が中国共産党の設立から100年を迎える節目の年であったこともあり、いくつか関連する著作が出版された。その中でも高橋伸夫中国共産党の歴史』(慶應義塾大学出版会)はもっとも印象に残るものだった。最新の史料状況と研究を踏まえた歴史学者の描く共産党史は一貫して暴力的で血なまぐさく、同時にそのサバイバルのために変幻自在である。著者が今後について楽観しない記述を行いつつも、ただ権威主義な体制として現体制を見ることへの注意を喚起している点は、印象に残る部分であった。またこれは共産党史ではないが、山口信治『毛沢東の強国化戦略1949―1976』(慶應義塾大学出版会)は、共産中国建国の祖である毛沢東の、安全保障要因を重視する対外認識と急進的な国家建設の連関の歴史を描き、現在の中国の体制の評価についても示唆も与えるものとなっており、興味深く読んだ。

 実は『米中対立』を一読したとき、アメリカ人の中国認識のあまりのぶれの大きさに、アメリカ人に対するシニカルな感情が強まったところがあった。しかしながらこれらの優れた中国共産党論も中国という国をどのように評価するかが難しいことを如実に伝えているところを見て、多少そうした感情が緩和された部分があった。併読の効用と思いたいところである。
 また大国の認識といえば、近年精力的に活動している小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房も見逃せない。ロシア流の軍事理論を踏まえ、そこからロシア流の世界認識を描く本書は、コンパクトでありながらロシアの行動を理解する一つの視点を与えてくれる一冊といえた。

 ロシアといえば、本年も昨年の駒木明義『安倍 vs. プーチン』に続き、第二次安倍政権の日露交渉を描いた著作として、北海道新聞社『消えた「四島返還」―安倍政権 日ロ交渉2800日を追う』(北海道新聞社)鈴木美勝『北方領土交渉史』(筑摩書房が相次いで出版された。いずれも同じテーマを扱いながら、駒木本はロシア側の理論の変遷に、道新本は元四島住民や漁業といった現場の視点に、鈴木本は「政」と「官」の関係や政局など日本政治の中枢の描写など、それぞれに長じた点に差異があり、三つの著作は相補的な関係にあるといえるだろう。なぜこのタイミングであのような動きがあったのか、が自分の関心であったが、そうした描写では政局描写に富んだ鈴木本が最も濃密であり、政治記者としての経験の長さを活かしているように感じられた。また鈴木本は鳩山一郎政権以来の日ソ交渉の歴史的経緯について独特のメリハリをつけながら論じており、まずこの問題に触れるのであれば、同書がもっとも優れているとはいえるかもしれない。三冊は第二次安倍政権の領土交渉のあり方に批判的な点でいずれも共通している。この問題については『外交』や北海道新聞のインタビューで安倍元首相も積極的に自らの行動を弁明しているが、今後もこの交渉は検証にさらされることだろう(リンク1リンク2)。

 政治・安全保障を扱うハイ・ポリティックス的な著作以外でも、いくつか印象深い本が発表された。第一に取り上げるべきは、佐々木貴文『東シナ海―漁民たちの国境紛争』(KADOKAWAである。『漁業と国境』(みすず書房)から個人的に注目をしていた研究者だが、本書では尖閣諸島周辺をはじめとする東シナ海の漁業を扱いながら、国家の領域の最前線にある経済活動=漁業の厳しい実態を説得的に論じている。また安田峰俊『「低度」外国人材―移民焼き畑国家、日本』(KADOKAWAは、日本社会で非熟練労働を担う(またはそこから離脱した)外国人労働者たちの姿と、彼らを送り込むシステムを時にユーモラスに、しかし克明に描いている。いずれも政治外交を直裁に描いているわけではない。しかし日本社会と国際社会の接点ということを否が応でも考えさせられる本であった。また経済関係では、開発協力という政策を実態に即して再検討した佐藤仁『開発協力のつくられ方―自立と依存の生態史』(東京大学出版会が印象に残った。本書はODAなどの開発協力が、案件の策定に関わる援助のドナー国や受け入れ国の政府などの計画のままに実現されていくものではなく、現場やNGOなど、外部要因との相互作用の中でかつて形成されることを明らかにしており、またそうした展開は、ドナー国と受け入れ国間の開発協力の長い歴史的プロセスの中で生じてきたことを明らかにしている。関わるアクターすべてが物事の帰趨を左右する、ということ自体はこのように文章にしてしまうと不思議ではないように思われる。しかし、「計画」とその「実施」という垂直関係を前提とした発想となっている開発分野自体に再考を促すという点で、刺激的な著作と感じられた。

 また他に国際政治に関する本で注目すべきものとしては、リチャード・ハース(上原裕美子訳)『The World(ザ・ワールド) 世界のしくみ』(日本経済新聞出版)が翻訳された。信頼できる書き手の誰でも読める「国際情勢」入門書としては、安定した一冊と言えるだろう。本来翻訳書であれば日本語版ならではの補足や解説、読書案内があるのが親切なようにも感じられたが、そこは欲張りかもしれない。

 

■伝記・回想録
 ここでは上記の中に含めなかった伝記・回想録で印象的だったものを取り上げたい。相沢英之伊藤隆・清家彰敏監修、中澤雄大編)『回顧百年 相沢英之オーラルヒストリー』(かまくら春秋社)はシベリア抑留を経験し、大蔵官僚、衆議院議員として戦後社会を生きた大部のオーラル・ヒストリーであり、高齢時代の証言にも関わらず、情報量は非常に多く、興味深い記述に富んでいる。塩谷隆英『21世紀の人と国土 下河辺淳小伝』(商事法務)は戦後日本の国土開発・国土行政の分野で活躍した異能の官僚・下河辺淳の評伝で、長年下河辺の謦咳に接した著者が、下河辺の史料を駆使して描いた評伝であり、「開発天皇」とも揶揄された著者の取組みの全体像に触れることができる。片山修『山崎正和の遺言』(東洋経済新報社は、長年山崎正和と関わりのあったジャーナリストが「山崎正和の最大の作品(三浦雅士)」であるサントリー文化財団と山崎の関係を扱った評伝である。いずれにしても、有り体にいって「スケールの大きさ」を感じさせる人物たちの評伝であるといえる。これらの本を眺めながら、いずれの人物も近年まで生きていたという事実に、感慨にふけった。

 

■文庫(一部新書)
 歳を重ねていて単純に嬉しいと思えることの一つに、これはおもしろい本だと思っていたものが文庫など手に入れやすい形で刊行されるということがある(人に気兼ねなくすすめることができるのもありがたい)。既に取り上げた以外でそうした気持ちになった本として、A・J・P・テイラー(倉田稔訳)『ハプスブルク帝国1809-1918』(筑摩書房ジョージ ・L・モッセ(佐藤卓己佐藤八寿子訳)『大衆の国民化―ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』(筑摩書房倉沢愛子『増補 女が学者になるとき―インドネシア研究奮闘記』(岩波書店大野伴睦大野伴睦回想録』(中央公論新社の文庫化が今年は印象に残った。文庫以外に新書の形をとったものとしては、安田峰俊『八九六四 完全版― 「天安門事件」から香港デモへ』(KADOKAWA秦郁彦『病気の日本近代史』(小学館もこうした著作として取り上げられるだろう。

 また文庫オリジナル編集本としては、アイザイア・バーリン(松本礼二編)『反啓蒙思想 他二篇』(岩波書店和辻哲郎座談』(中央公論新社が特に関心を引いた。バーリンは「ジョセフ・ド・メストルとファシズムの起源」が適当な解題を添えて読めるのが嬉しく、和辻座談は硬軟あらゆる和辻が読める点で興味深いものだった。

 

■おわりに
 関心を持って読んだ本、あるいはせめてつまみ読みした本を、自分の関心のままに並べるということをしたのが、上記の羅列である。いくつも並べた中でもとりわけ色々考えさせられたのは、幣原の評伝や『日米の絆』、『平成の宰相』たち、日露交渉を扱った二冊など、日本の政治外交を扱った著作であった。今年は米中・米露を中心に大国間の角逐がとにかく激しい一年であったが、そうした国際秩序の中でどのように振る舞いが求められるのか、従来日本外交がどのような「型」を持ち、振る舞ってきたのかということを意識することが少なからずあったからと思われる。
 またコロナ禍に関する本も色々買った記憶があるが、ほとんど読まなかったことに気づかされる。正直メディアに氾濫するコロナ情報に辟易して、そうしたものを避けていたいた部分もあった(なおコロナ関係では本ではないが、谷口功一「夜の街の憲法論―飲食店は自粛要請に従うべきなのか」『VOICE』2021年7月号が、かなり論争的なスタイルであったが、重要な論点を提示していたと感じている。権利というものについて考えさせられる論考であった)。
 今年は今までもおろそかにしているいわゆるポリティカル・サイエンス系の著作はもとより、従来はなるべく意識して読んできた政治思想・理論関係の本も一冊も目を通せていないことがわかる。特に今年は上村剛『権力分立論の誕生―ブリテン帝国の「法の精神」受容』、渡辺浩『明治革命・性・文明―政治思想史の冒険』、平石直昭『福澤諭吉丸山眞男』、善教将大『大阪の選択―なぜ都構想は再び否決されたのか』、松林哲也『政治学と因果推論―比較から見える政治と社会』などなど、興味深い著作が次々出版されたにも関わらず、である。清水雄一朗『原敬』や塩川伸明『国家の解体―ペレストロイカソ連の最期』、ウルリヒ・ヘルベルト(小野寺拓也訳)『第三帝国―ある独裁の歴史』などにも目を通せていないことに気づかされる(そのくせ亀井静香『永田町動物園―日本をダメにした101人』なんて本は読んでいた。時間の使い方に問題がある)。もちろんそれで誰かに責められるようなことはないし、このエントリで取り上げた本はいずれも読む価値のある本だと思ったが、もう少し幅のある読書はできなかったのか。そんな自責の念に襲われるところも若干ある年の暮れであった。

2020年の本

 過去のログを漁るとまるで言い訳の変遷がボージョレ・ヌーボーの評価のようであるが、本当に今年もろくに本を読まない一年であった。Twitterで報告したとおり、私事でも色々あり、世の中はコロナに見舞われた。在宅勤務が増える中で読書がはかどるかとも一瞬思ったのだが、そんなことはなく、人間は読書の習慣が鈍ると本を読まなくなるのだと反省の思いが強くあった。来年からは是正しなければならないとかなり深刻な反省を覚えるところがあったが、それはそれとして今年出た本で印象に残った本を取り上げることとする。

■印象に残る研究あれこれ
 どのような脈絡をつけたものか考えたが、ランダムに取り上げることとした。まず一冊目として取り上げたいのは川名晋史『基地の消長 1968-1973 日本本土の米軍基地「撤退」政策』(勁草書房である。本書は基地問題をめぐる政治学を研究対象としてきた政治学者が、1960年代後半に本格化した日本本土の在日米軍基地の再編・縮小政策の検討・実施過程を詳細に検討したものである。著者自身の研究テーマが示すように、本書の関心の対象は基地をめぐる政治である。
 あくまで事例という位置づけであるが、本書は米政府の一次史料を詳細に分析することで、その政策がどのように進められたのかを明らかにする歴史研究としての性格を濃厚に帯びている。ペンタゴン及び各レベルの軍司令部に勤務する文民、軍人の双方からなる行政部門、さらに当時国防費の抑制や行政府の戦争権限肥大化に関心を寄せていた連邦議会による専門的検討などを仔細に追っており、米国における政治過程がどのように進むのかという点でも非常に教えられる点が大きかった。「基地の政治学」に関心のない私のこうした読みは著者の自身の関心からすれば本意ではないかもしれないが、そうしたファクトファインディング的な示唆も大きな一冊であるといえよう。
 また本書が示唆しているとおり、この基地の縮小・再編が向かった先がどこであったかといえば、それは返還以前の沖縄であった。米軍の基地機能を沖縄に集約するまでの展開、さらにその後についても、これを平易に理解できる野添文彬『沖縄米軍基地全史』(吉川弘文館が出版された。これもまた教えられるところが多かった。

基地の消長 1968-1973: 日本本土の米軍基地「撤退」政策
 
沖縄米軍基地全史 (歴史文化ライブラリー)

沖縄米軍基地全史 (歴史文化ライブラリー)

 

   さて、2020年は戦後75年でもあった。微妙な節目であることもあり、戦後70年のそれに比べて特に目を引く出版物は少なかったように感じたが、その例外として富田武『日ソ戦争 1945年8月』(みすず書房が取り上げられよう。「ソ連満州、千島・樺太侵攻」などと表現される1945年8月以降の日本とソ連の軍事衝突を「日ソ戦争」という言葉で捉えた一冊である。日ソ両軍の軍事行動、邦人を襲った悲劇(ソ連軍による蛮行)、抑留者をめぐる戦後処理など、従来個々に論じられてきたテーマが統合され、一つの戦争の過程として論じられており、読み応えのある一冊である。
 私事になるが祖父が抑留経験者であったこともあり、「日ソ戦争」には強い関心がある。率直にいって本書は読んでいて気の滅入る一冊であったが(気の滅入らない「日ソ戦争」本などないが)、読み応えのある一冊であった。なお著者はfacebook上で「抑留研究会」を主催して精力的に発信を行っており、これも一読の価値がある。

日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民

日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民

  • 作者:富田 武
  • 発売日: 2020/07/18
  • メディア: 単行本
 

  周年的なものといえば、今年はインドネシアにおける9・30事件(1965年)から55周年の節目でもあった。これに関連したものともいえる本として、倉沢愛子インドネシア大虐殺―二つのクーデターと史上最大級の惨劇』(中央公論新社中公新書)、同『楽園の島と忘れられたジェノサイド―バリに眠る狂気の記憶をめぐって』(千倉書房)の二冊が出版された。同著者の2014年刊の『9・30 世界を震撼させた日―インドネシア政変の真相と波紋』(岩波書店)に続く一冊だが、1946年生まれのインドネシア地域研究者である著者が、インドネシアの政治的方向、さらに東南アジア地域の動向も一変させたこの事件に歴史的事件として関心を寄せると同時に、当時同時代を生きながら十分な関心を向けてこなかったとの使命感をもとにものしたものである。
 いずれも史料の検討と共に、虐殺の過程を明らかにするため多くのインタビューなど実地の調査を反映しているが、概説書である『インドネシア大虐殺』以上に『楽園の島と忘れられたジェノサイド』の与える印象はより強い。人口160万人のうち、5パーセントにあたる8万人という最も苛烈な虐殺が行われたバリ島の虐殺過程と、その後も続いた迫害と和解の困難、「楽園」という観光地イメージの与える制約など、9・30事件が一つの地域に与えた影響をミクロに考察しており、興味深い一冊である。装丁の美しさもそうした点を引き立てているといえよう。

  ところで、現場を踏まえた考察という点でやはり印象深かったのは、濱田武士・佐々木貴文『漁業と国境』(みすず書房であった。領土問題をめぐって海洋問題が議論されることは中国の海洋進出が活発化する中で多くなり、海洋資源保全の観点から漁業に言及されることもまた多くなった。一方漁業経済学を専門とする著者らは、本書で日本の漁業をめぐる国際関係に着目しており、北方水域、日本海東シナ海、南太平洋と、いずれにおいても日本の漁業が極めて困難なトラブルに日々見舞われていることを明らかにしている。ロー・ポリティクスの問題として漁業権益をめぐる問題はしばしば歴史的にも注目されてきたテーマであり、その点で本書は古典的なテーマを扱っているともいえる。とはいえ、領土をめぐる日本外交の緊張が日々増している裏側で、それがどうなっているかの現在地を知ることができる一冊と感じられた。 

漁業と国境

漁業と国境

 

  また概説書になるが、今年はドイツ統一30年を受けて、アンドレアス・レダー(板橋拓己訳)『ドイツ統一』(岩波書店岩波新書も出版された。ドイツ現代史をテーマとする概説書の出版・翻訳は続いているが、ドイツで出版された概説書を翻訳した本書は、解説の充実も相まってこのテーマに暗い人間としてはありがたい一冊であった。ドイツ史に限らず西洋史についてはかつてのように日本における研究者層の厚みが失われていることがしばしば指摘されているが、こうした概説書の翻訳出版はそうした部分の底上げをもたらしてくれるものだと感じられる取り組みでもあった。

ドイツ統一 (岩波新書)

ドイツ統一 (岩波新書)

 

  また、今年の無視できない一冊として、谷口将紀現代日本の代表制民主政治―有権者と政治家』(東京大学出版会が出版されたこともあげられよう。2003年以来継続的に東京大学朝日新聞によって実施された有権者・政治家調査データをもとに、政治家と有権者が、どのような政策を重視し、またどのような政治傾向を持っているのかを明らかにしている。都度の調査結果については、朝日新聞総合雑誌で都度その内容を見た記憶があるが、20年弱を総括する形で示されているのはまさに貴重な成果といえるだろう。本書はその考察の結論として、欧米諸国などにおいて大きな政府・小さな政府といった社会経済体制をめぐる選択が重要な政策的争点として認知されるのが一般的であるのに対して、日本において重視されるのが、憲法や安全保障問題、原子力エネルギー問題であったという見解を示している。今後の日本政治の展開を考えるうえでも、その前提として考えたい一冊でもあるといえよう。 

現代日本の代表制民主政治: 有権者と政治家

現代日本の代表制民主政治: 有権者と政治家

  • 作者:谷口 将紀
  • 発売日: 2020/03/16
  • メディア: 単行本
 

 

■評伝・回想録
 評伝・回想録としてまず言及したいのは、駐英大使、国際交流基金理事長などを歴任した外交官である藤井宏昭の回想録『国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ―藤井宏昭外交回想録』(細谷雄一ほか編、吉田書店)である。正直なところ、官僚の回想録は「こういう本だ」と説明するのは通常難しい。転勤・異動の多いキャリア外交官なら猶更である。しかし本書は、1956年に外務省に入省、要職を歴任したのち、97年に駐英大使で退職した著者のキャリアが、戦後日本が外交的な地位を回復し、拡大する過程と重なる形で描かれており興味深く読むことができる。特に日中国交正常化をはじめ、様々な外交的事件と直面した大平正芳外相の秘書官時代、昭和天皇訪米のセッティング、駐英大使時代の日英和解の推進などは、興味深く読めるところであろう。本書は暴露本的でも、また晦渋な学術書風でもない。しかしながら書くべきことは書かれているし、おそらくそうでないものは捨象されている。憲法前文の一節である「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」が自然に感じられる、読後感のよい一冊であった。

  ほかに回想録として印象的だったのは、浅川雅嗣(清水功哉聞き手)『通貨・租税外交―協調と攻防の真実』(日本経済新聞出版)である。財務官という第一線を退いて間もない著者が内幕も含むインタビューに応じるという点で異例の一冊だが、欧米圏の文化に倣った一冊という趣旨とのことであり、内容を理解できたかはともかく、その取り組み自体が興味深いものであった。 

  評伝としては、大木毅『「戦車将軍」グデーリアン―「電撃戦」を演出した男』(角川書店/角川新書)があげられよう。大木氏の近年の著作と同様に、最新の研究成果を踏まえつつ、「電撃電」の構想者として知られてきたハインツ・グデーリアンの実像に迫る一冊である。本書で下されるグデーリアンへの評価は、政治的にナチズムに接近してその弊害に目をつぶり、また手塩にかけた装甲部隊の権益維持に汲々とし、戦術的な能力は優れているが、戦略眼を持たない軍人という厳しいものであるといえる。その評価は極めて厳しいものであるといえるが、「なぜドイツは敗戦したのか」を考えうる点で、人物というミクロから改めて接近できる一冊であった。

  なお著者は、自らの回想録ともいいえる戸高一成氏との対談集『帝国軍人―公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』(角川書店/角川新書)も今年出版している。本書は旧軍人の集う団体のスタッフとして、また歴史雑誌の編集助手として、将官を含む旧軍人と触れてきた二人による戦後の旧軍人と旧軍をめぐる対談集だが、実地の旧軍人を見知っているだけに、軍人評を行いながら、軍隊の残した記録、回想を読む時に注意すべき事項や留意すべき組織特性を縦横に語ったものとなっている。
 もちろん、実際に軍の遺した一次史料を読んで研究や調査を行う人間はまれだろう。しかし本書は、そうしたことをする人間でなくても(一般の書籍やドキュメンタリーを見る人間であっても)、どんな想像力を働かせてこうした時代や組織を考えればよいかというリテラシーを与えられる一冊だと感じられた。こうしたリテラシーというのは本来何らかの形で「わかっている人間」から手ほどきを受けるというのが望ましいのであろうが、なかなかそういうことは難しいものである。それが活字という形で基礎的に提供されているというのは、貴重なことだと思われる。

 

■ドキュメンタリーあれこれ
 いくつか取り上げることが可能であろうが、まず村山治『安倍・菅政権vs.検察庁―暗闘のクロニクル』(文藝春秋を取り上げたい。本書は検察庁法改正問題、黒川弘務東京高等検察庁検事長の賭けマージャン辞職をクライマックスとする、第二次安倍政権官邸と法務・検察間の幹部人事をめぐる数年間の抗争のドキュメントである。「政権の守護神」として安倍官邸を守ってきた検事・黒川の検事総長就任を阻止する…そういう風に盛り上がったのがかの騒動であったと思われるが、検察を記者として長く追ってきた著者は、黒川と検察官任官同期の林真琴(現検事総長)の来歴と法務・検察がこの間のどのような状況に置かれていたかを論じつつ、2020年に至るまでの長い伏線を明らかにすることで深層に肉薄している。本書が明らかにしているのは、この問題の根幹は従来独立王国を築いてきた法務・検察という組織と、法務・検察も含めて政治主導を当然とする安倍官邸(特に人事を最大の権力資源としてきた菅内閣官房長官)の人事をめぐる闘争であったということである。
 本書を一読して感じたのは、この騒動も著者のような長いスパンでとらえると、90年代以降の政官関係の変化の中で生じた問題であること、また法務・検察という一般の官庁とは若干性格が違うがゆえに、そうした政治優位への反応の遅れた組織がそれにどう対応するのかという問題に翻弄されたという話ではないかということであった。人事、人の評価というものは様々であり、関係者の中にはまた違った物語もあるのかもしれない。とはいえきわめて興味深い一冊であったといえる。

  またもう一冊取り上げたいのは、駒木明義『安倍vs.プーチン―日ロ交渉はなぜ行き詰まったのか?』(筑摩書房である。本書は安倍政権が意欲的に取り組みながらも、なんらの成果も残せなかった対ロシア外交(領土・平和条約交渉)について、朝日新聞の記者として取材にあたってきた著者がその失敗の理由を詳細に明らかにしている。
 特に著者が指摘しているのは、2000年代半ばよりロシア側の領土・平和条約問題をめぐる態度は日本側と調整困難なものへと硬化しつつあり、安倍政権期においてそれは鮮明なものとなっていたという事実である。それにも関わらず、安倍政権は楽観的な見通しのもと、国内のマスメディアに楽観的、かつ情緒的な見通しを述べながらロシアとの交渉に突き進んでいったと厳しく批判している。
 本書の展開するロシア外交の分析、そして安倍外交批判は極めて説得力があると感じられるものであった。また同時に興味深いと感じられたのが、本書でロシア側の論理を分析する際に、ロシア語に長けた著者自身の取材だけでなく、記者会見やテレビ番組、公的発表といったいわゆる公開情報も豊富に用いていることである。
 逆を言うと、公開情報を駆使すれば、ロシア側の態度は明瞭であったことが本書では明らかにされている。にもかかわらず、なぜ安倍外交はあれほどロシアに熱を上げていたのだろうか…。著者はこの問いには答えていないが、その点が根本的な疑問として湧き上がる一冊でもあった。

安倍vs.プーチン ――日ロ交渉はなぜ行き詰まったのか? (筑摩選書)

安倍vs.プーチン ――日ロ交渉はなぜ行き詰まったのか? (筑摩選書)

  • 作者:明義, 駒木
  • 発売日: 2020/08/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  どこで取り上げるか悩んだが、本節の最後に取り上げることにした一冊は、佐藤栄作政権下に日中国交正常化に関わったとされていたが、その存在を含め一切が謎に包まれていた江鬮眞比古(えぐち・まひこ)の人物とその行動に迫ったドキュメント、宮川徹志佐藤栄作 最後の密使―日中交渉秘史』(吉田書店)である。沖縄返還交渉に携わった外交官・千葉一夫の評伝をものしたNHKのディレクターが、2017年にNHKBS1スペシャルで放送された内容に更なる調査を加えた本書は、率直に言って、「まだこんな事実が明らかになるのか」という新鮮な驚きを感じさせられた一冊であった。その証拠となる総理秘書官・西垣昭の日記など詳細な資料編も含めて刊行された本書は、うれしい不意打ちといえる一冊であったといえよう。

佐藤栄作 最後の密使――日中交渉秘史

佐藤栄作 最後の密使――日中交渉秘史

  • 作者:宮川 徹志
  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: 単行本
 

  

■各種書籍化について
 文庫化をはじめ、書籍化されたことがうれしかった本について今年も触れたい。文庫化は好きだった本、関心を持っていた本があらためて文庫として息を吹き返す、という点でうれしいものである。安価に人に薦められるのもうれしいところである。その点では以下の三冊が特に文庫化がありがたい本たちであった。

  また論文集としては、戸部良一『戦争のなかの日本』(千倉書房)、黒沢文貴『歴史に向きあう―未来につなぐ近現代の歴史』(東京大学出版会の二冊が印象に残った。いずれも掲載論文の多くは過去に関心を持って読んでいたものだが、それが書籍としてあらためて世に出るというのは素晴らしいことと感じられた。

戦争のなかの日本

戦争のなかの日本

  • 作者:戸部 良一
  • 発売日: 2020/07/31
  • メディア: 単行本
 
歴史に向きあう: 未来につなぐ近現代の歴史

歴史に向きあう: 未来につなぐ近現代の歴史

  • 作者:黒沢 文貴
  • 発売日: 2020/01/27
  • メディア: 単行本
 

 

■終わりに
 例年通り雑駁な感想文の連なりとなったが、最後に取り上げたいのは、待鳥聡史『政治改革再考―変貌を遂げた国家の軌跡』(新潮社/新潮選書)である。本書は、日本国内で平成の時代である90年代以降急速に進んだ統治機構に関わる各種の改革―選挙制度、行政機構、中央銀行、司法・地方分権など―を概観すると共に、それがいかなる相互作用をもたらしたのかを論じた、平成の諸改革の総決算ともいえる分析であったといえるだろう。 

政治改革再考 :変貌を遂げた国家の軌跡 (新潮選書)

政治改革再考 :変貌を遂げた国家の軌跡 (新潮選書)

  • 作者:聡史, 待鳥
  • 発売日: 2020/05/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  ただ、本書の内容それ自体より面白く感じられたことがあった。本書を読み始め、この本はたまたまその直前に読んでいた、村松岐夫『日本の行政―活動型官僚制の変貌』(中央公論社中公新書と対になる一冊であることを発見したことである。

日本の行政 活動型官僚制の変貌 (中公新書)
 

   1994年に出版された村松の本は、日本の行政の歴史的経緯と現状を論じつつ、その抱えている課題を明らかにし、今後の変革期において、何を変化させていくべきかを論じている。そしてそこで指摘されている項目こそ、待鳥の本で取り上げられている諸機構・制度の改革であった。同書は官僚制の改革の必要性を指摘しながら、そのためには日本の政治システム・統治機構の包括的な改革が不可欠であることを述べていたのである。
 興味深かったのは、村松が最後に「市民」という項目を設け、いわゆる有権者の現状と、これからの市民に期待される政治・行政への態度を論じていた点であろう。これは待鳥の本からは消えていた要素であった。もちろん待鳥の本の目的は実際に行われた諸改革の総括であるから、それの有無を論じるのは目的でないかもしれない。しかしこの二冊の本の間にある違いはなんであろうかと、しばし考えるところがあった。

 

2019年の本

 はてなブログ形式で初の投稿となった。毎年言い訳から始めるのも芸がないが、読書のはかどらない一年であった。この調子で新刊のとりまとめをするのもおぼつかない感じもするが、いくつかのカテゴリで実際に目を通し、印象に残った本を取り上げたい。

 

■日本外交史をめぐって

 他の項目より日本外交史という範囲設定はかなり狭い。そうした枠の中でも例年通り多数の書籍が出版されたが、特に印象に残ったのは、近現代の日本外交通史である波多野澄雄編著『日本外交の150年―幕末・維新から平成まで』(日本外交協会/現代史料出版)であった。

 自国史ということもあり、日本外交史のテキストは世の中に多数存在する。しかし、幕末から現代までを一貫して、専門の外交史家がモノグラフとして執筆したものは実はあまり多くない。その点で本書は細谷千博『日本外交の軌跡』、池井優『日本外交史概説』、井上寿一『日本外交史講義』以来の取り組みといえるだろう。昭和戦前期、そして戦後期と異なる時代について優れた業績を残してきた著者が外交政策の展開を過不足なく論じており、図版も豊富である。こういうものがあってほしいという満足感のある一冊だった*1

 ところで、単独の著者による通史を読むことの楽しみとして、対象への書き手のスタンスが明瞭なものを読むことができるということがいえるだろう。本書は必ずしも強くスタンスを打ちだしているわけではないが、「あとがき」で石井菊次郎が晩年、明治期外交の成功の要因として回顧した「誠実と穏健」を、日本外交がその後もおおむね持続してきたことを評価していることが注目を引く。このように日本外交の行動様式を描くというのが、本書の歴史叙述のスタンスであるといえるだろう。

  さて、日本外交の行動様式については、『帝国日本の外交 1894-1922』で「利益、正当性、「等価交換」の三要因を重視するという、明治・大正期日本外交の行動様式を明らかに佐々木雄一氏が、「近代日本外交における公正―第一次世界大戦前後の転換を中心に」(佐藤健太郎・荻山正浩・山口道弘編『公正から問う近代日本史』吉田書店、所収)を本年刊行しており、これも興味深く読んだ。

 同論文で著者は戦前期一貫して日本外交が「公正」という要素を重視していたことや、その意味の変化を論じている。著者によれば特に明治・大正期日本外交における「公正」とは、手続き的なフェアネスを求めるものであった。条約改正など、当時の外交課題について、自国側の条件が整備されるまでは不平等性も甘受するが、条件が整えば欧米諸国に対して適切な対応を求める、ということである。いわば前著で明らかにした三つの行動様式を実現する際の説得のレトリックが「公正」だったということである。しばしば権力政治的、(国際政治理論における)リアリズム的と評価されてきた日本外交の別側面を照射したものといえるだろう。なお、昭和期に至り、「公正」はむしろ主観的に、自らの理想とする状況を主張するためのものへと変質していくことも同論文では論じられている。

公正から問う近代日本史

公正から問う近代日本史

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 吉田書店
  • 発売日: 2019/03/26
  • メディア: 単行本
 

 石井や波多野が評価する「誠実と穏健」の日本外交は、佐々木の論に依るなら、手続き的「公正」の条件を整えつつ、「利益・正当性・『等価交換』」を求めるものだったといえるだろう。両者を読みながら、二つを重ねて考える面白さがあった。なお、波多野は「誠実と穏健」は大戦略を生み出さないこと、またそれだけでは乗り切れない局面も日本外交に増えてきたことを指摘している。そうした事態に直面している日本外交の行動様式を今後どのように説明可能か…という点を考えるのも、今後の楽しみであると感じられた読書だった。

 日本外交史については、戦後50年代に駐フィリピン、駐米大使を歴任した朝海浩一郎の日記を翻刻した河野康子・村上友章・井上正也・白鳥潤一郎編『朝海浩一郎日記 付・吉田茂書翰』(千倉書房)も刊行された。在外で様々な人士とのチャネル作りに励む朝海の姿が見られて興味深い。駐米大使として観たワシントンの要人たちの人物評価は、日本外交史以外に関心を持つ人間にも有益だろう。

 朝海が駐米大使を務めた時期に行われた、岸首相・藤山外相の訪米については、インターネット上で事前準備や会談などの記録が公開されている*2。これらと照らすと、現場の外交官がどのような心境でこうしたイベントに臨んだのかが理解でき、より興味深く読むことができると思われる。 

 

■その他政治をめぐって

 まず取り上げたいのは、大木毅『独ソ戦―絶滅戦争の惨禍』(岩波書店である。異例のヒットを重ねているという同書は、政治、経済、軍事といった多岐にわたる要素を含むドイツとソ連の戦争をコンパクトにまとめている。

 単なる軍事紛争ではない、さりとて戦争であるから単なる政治闘争でもない…という独ソ戦の持つ多面性に対して、従来邦語で読める独ソ戦に関する書籍はある種隔靴搔痒の感を免れ得ないところがあった。これに対して、政治外交史と軍事史の双方に長じ、また近年精力的に諸外国の軍事史研究の成果を紹介してきた著者が濃縮的に整理をした本書は、まさに待望の一冊といってよいだろう(とはいえ、副題の「絶滅戦争」にまで至る凄惨さは、読んでいてかなり気が滅入るところもある…)。あとがきにある「詳細な通史」についても期待したいところである。

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

 

 続いて取り上げたいのは、中国における対日協力者の動向を扱った関智英『対日協力者の政治構想―日中戦争とその前後』(名古屋大学出版会)である。中国の正史からは「漢奸」と切り捨てられる様々な人々を扱う本書は、各章を独立して読むことも可能な一冊である。対日協力という結果としての行動だけでなく、彼らがどのような展望を持って日本に協力したのか、協力後の展開を模索したのかに注目すべきだとする著者の主張は、中国史を理解する点でも重要と考えられる。

 同時に著者がこうした各人の構想に対する「日本による占領という制限下に置かれた協力者が、相対的に自由に、また主体性を伴って携わることのできた、数少ない活動の一つ」評価は、何とも言えない苦い読後感も与える。

 また、本書の面白さは、日本の敗戦後の協力者たちについても扱っていることだろう。戦争を区切りとはせず、連続性の中で戦後の活動を描く構成は、逆説的に彼らのありようを単なる「対日協力者」という扱いから解放する点でも有益と感じられた。

対日協力者の政治構想―日中戦争とその前後―

対日協力者の政治構想―日中戦争とその前後―

 

 冷戦期については二冊、藤澤潤『ソ連コメコン政策と冷戦―エネルギー資源問題とグローバル化』(東京大学出版会溝口聡『アメリカ占領期の沖縄高等教育―文化冷戦時代の民主教育の光と影』(吉田書店)が関心を引いた。

 藤沢本はソ連東ドイツをはじめとするコメコン諸国の経済協力という、東西関係ならぬ東東関係を扱った歴史研究である。一見極めてマニアックなテーマであるが、その内容は冷戦史と密に連携している。本書はソ連が自らのヨーロッパにおける勢力圏を維持するため、さらに社会主義体制が決して西側に劣らないものであることを示す「体制間競争」のために、石油・石炭といったエネルギー資源について、コメコン諸国にいかに便宜を図るかで悪戦苦闘していたか、またこうした資源の追求がコメコン諸国の中近東地域への進出とどのように連関したかについて、実証的に解明したものだからである。本書は主としてソ連東ドイツの史料を活用してこの東東関係の暗闘を明らかにしているが、ソ連ブロックの内側で起きていたことがここまで実証的に解明できるのか、という点でも印象的な一冊だった。

 溝口本は軍政下の沖縄における琉球大学の設立と、その運営に琉球列島米国民政府(USCAR)がどのように関与したのかを扱っている。いわゆる「文化冷戦」については、日本本土における様々な文化面でのソフトな工作を扱った研究が既に邦語でも存在するが、冷戦の展開と沖縄における米国高等教育政策の(場当たり的な)展開を実証的に解明した本書は、琉球におけるそれが全く違った様相を示したこと解明しており興味深いものだった。

 

ソ連のコメコン政策と冷戦: エネルギー資源問題とグローバル化

ソ連のコメコン政策と冷戦: エネルギー資源問題とグローバル化

 
アメリカ占領期の沖縄高等教育――文化冷戦時代の民主教育の光と影

アメリカ占領期の沖縄高等教育――文化冷戦時代の民主教育の光と影

  • 作者:溝口 聡
  • 出版社/メーカー: 吉田書店
  • 発売日: 2019/02/27
  • メディア: 単行本
 

 本稿の最後には、車田忠継『昭和戦前期の選挙システムー千葉県第一区と川島正次郎』(日本経済評論社 を取り上げたい。本書は戦後に自民党副総裁となり、戦後政治史に重きをなした川島正次郎の戦前期における普通選挙への対応を扱っている。

 本書は川島という地方名望家でも、政府や企業で要職を経験したわけでもない人物がきめ細やかな有権者への対応を行ない、政治と選挙を一致させたことで、普通選挙で生き残っていった様子を明らかにしている。川島という題材で関心を持った一冊だったが、必ずしも一次史料が豊富ではない一政治家の行動を丹念に実証したことに感銘を受けた。

 選挙が組織選挙となっていく戦後についても著者は分析を進める予定とあり、今後を期待したい一冊である。

昭和戦前期の選挙システム: 千葉県第一区と川島正次郎

昭和戦前期の選挙システム: 千葉県第一区と川島正次郎

 

 

■洋書の翻訳について

 洋書の大型評伝や歴史書の翻訳はかなり定着した感があるが、今年も何冊か関心を引く本が翻訳された。特にトーブマンのゴルバチョフ論、トゥーズのナチス・ドイツ経済史など、英語圏でも定評のある研究が翻訳されたのはありがたいことだった。

 決して読者が多いとは思えない本も少なくないが、こうした出版が引き続き続いてほしいと念願するところである。

ゴルバチョフ(上):その人生と時代

ゴルバチョフ(上):その人生と時代

 
ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

 
鉄のカーテン(上):東欧の壊滅1944-56

鉄のカーテン(上):東欧の壊滅1944-56

 
キッシンジャー 1923-1968 理想主義者 1

キッシンジャー 1923-1968 理想主義者 1

 
人間の本性――キリスト教的人間解釈

人間の本性――キリスト教的人間解釈

 

 

■各種文庫について

 洋書の翻訳と同じだが、文庫化も嬉しい本の文庫化が続いた。特に『明治政治史』『転換期の大正』など、岡義武の一連の著作が岩波文庫入りしたことは特筆に値する。いずれの本も解題が充実しており、有益な文庫化であったといえるだろう。

明治政治史 (上) (岩波文庫)

明治政治史 (上) (岩波文庫)

 
転換期の大正 (岩波文庫)

転換期の大正 (岩波文庫)

 
はじめての政治哲学 (岩波現代文庫)

はじめての政治哲学 (岩波現代文庫)

 
独裁の政治思想 (角川ソフィア文庫)

独裁の政治思想 (角川ソフィア文庫)

 
中世の覚醒 (ちくま学芸文庫)

中世の覚醒 (ちくま学芸文庫)

 

 

■終わりに

 例によって印象に残った本を好きなように書き散らしたが、しめくくりに取り上げたいのは平山洋江藤淳は甦る』(新潮社)石平・安田峰俊『「天安門」三十年 中国はどうなる?』(育鵬社の二冊である。

 私自身はかつて、江藤淳について何とも言えない嫌悪感というか、違和感を抱く人間だった。かつての江藤への印象は、国士めいたことを(やたら晦渋な文章で)書き綴ったり、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの存在を主張したりする、何やらうさんくさい文士というものだった。ただ歳を経るにつれ、江藤の政治的な「センス」の悪さや、一方で様々な批評で見せる鋭さにしだいに関心を持つようになっていった。

 没後20年を記念し、編集者として江藤とも長く接した平山が公刊した評伝『江藤淳は甦る』は、そういう意味でも待望のものだった。平山の伝記は詳細で極めて読み応えがある。本書を読んでも江藤に対する違和感が消えたわけではない(むしろ生年を捏造する、出自にこだわるなど、偏執狂的な江藤の人物にいよいよ気色悪い人だという感覚は強まった)。しかしずっと理解可能な存在であったこともまた感じさせられた。やはり江藤に対する忌避感があったという竹内洋が「江藤淳嫌い」が治る本と評しているのは、まさに我が意を得るところであった*3

 また、2019年は天安門事件から30年であった。これにちなんだ出版は多いとはいえなかったが、その中で『八九六四』の著者である安田と、天安門事件を機に社会主義中国と決別し、やがて保守論壇の寵児となった石平の対談本である『「天安門」三十年 中国はどうなる?』は異彩を放つ一冊であったといえよう。本書は石平の知性をうかがわせる冷静な分析と、同時に感情がほとばしっている。聞き手である安田があとがきに対談の様子を描写し、「対談ではなくカウンセリングをおこなっているみたい」という感想をもらしているが、活字になってもなお、そうした熱量は残り、不思議な読後感をもたらしているといえよう。

江藤淳は甦える

江藤淳は甦える

  • 作者:平山 周吉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/04/25
  • メディア: 単行本
 
「天安門」三十年 中国はどうなる?

「天安門」三十年 中国はどうなる?

  • 作者:石平,安田 峰俊
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2019/05/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  また雑誌としては、「政治思想史の新しい手法」を特集した『思想』1143号(2019年7月号)が白眉であった。思想史という手法がどのようなで、今何をしているのか、門外漢にとっても非常に勉強になる特集であり、いわゆる政治史に関心を持っている人間にとっては、それがどこでどう重なるのか(また異なるのか)を勉強できるいい機会であった。

 まとめていくと多くの取りこぼしがあるがそれでも色々おもしろい本の尽きない一年であった。来年もよいめぐりあわせを期待したい。

 

*1:同書は編著とあるが、編著者個人の単独執筆と回答している。「著者のことば 波多野澄雄さん 国際環境に適応目指す」『毎日新聞』2019年7月30日夕刊https://mainichi.jp/articles/20190730/dde/012/070/011000c

*2:外交史料館ホームページ https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/gshir/index.html 及び琉球大学「沖縄関係外交史料館資料データベース」http://riis.skr.u-ryukyu.ac.jp/resources/RC001_dadocs/

*3:江藤淳嫌い」が治る本 平山周吉×竹内洋・対談 https://www.bookbang.jp/review/article/566319