シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論

前口上
 シン・ゴジラは映像の快感に満ち満ちた作品であった。何度となく繰り返される政治家や官僚たちの会議、自衛隊による整然としたゴジラへの攻撃、ゴジラを襲う無人在来線爆弾と高層ビル、そして鳥肌が立つほど美しいゴジラの熱線放射。どれもこれも素晴らしかった。

 本作を特異なものとしたのが、作品が社会現象として捉えられ、多くのシン・ゴジラ論が語られた点にあるだろう。教義の映画のレビューではなく、特集連載を掲載した日経ビジネスオンラインを典型として、「シン・ゴジラ論壇」は活況を呈した、あるいは呈するように仕向けられた。今しばらくこうした状況は続きそうな様子である。

 おそらく2016年を振り返るとき、無視できない作品となったシン・ゴジラであるが、わたしは8月頭に一回目を見たときから耐え難い違和感があった。しかしながらそれを文章化することにはためらいがあった。わたしがためらいを感じたのは、違和感という名のこだわりが、作品の特色として語られる「リアル」さというものに関わることであるからだった。それはある意味とても重要かもしれないが、娯楽作品としての映画そのもの、あるいは作り手の意図との関係において重大視すべきであるか、ためらいがあったのだ。

 ただ、上映開始から三か月弱の間に「シン・ゴジラ論壇」が活況を呈する中で、自分が覚えた違和感を誰も論じないことについて、今度は別の違和感が募ってきた。孤独感、疎外感といってもよい。そして活況を呈する「シン・ゴジラ論壇」の中で、シン・ゴジラはおおよそ「リアル」な作品だという前提で議論が進んでいくことにも疑問を覚えた。

 結果、わたしはシン・ゴジラの「リアル」さについての違和感を論じたエントリを書くことにした。くどいようだが、わたし自身、わたしのこだわる部分が作品の本質的なものと関係するものであると、必ずしも思っていない。ゆえに、作品の否定ではないと考えている。また、ある意味うがった側面から見ることで、シン・ゴジラという作品の特徴の理解を助ける部分があるのかもしれないとは思っている。そして、シン・ゴジラを現実の何かを議論するための跳躍台とすることへの強い疑問であることは確信している。「シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論」と題するゆえんである。

 本題に移りたい。なおこの文章は作品内容に関する記述を含んでいる。

「政治」の希薄さ
 わたしがシン・ゴジラを見たとき覚えた違和感は、二点ある。その第一は本作における「政治」の希薄さであった。このように書くと、奇異に思われる人もいるかもしれない。シン・ゴジラの特色は、これまでの怪獣映画にない、濃密な政治描写にあったのではないか、多くのレビューも、そうしたことを述べていたのではなかったか。

 確かに、日本政府がゴジラの熱線によって壊滅するまでを作品前半部とするなら、前半部においてとりわけそうした描写は濃密であった。総理官邸で繰り広げられる会議に次ぐ会議、手続きの積み重ね、様々な役職名の乱舞は、それが力強いフォントでスクリーンに登場することも相まって、多くの人の印象に残るものだっただろう。

 しかし、ある人が指摘したように、本作で力点をもって描かれていたのは、「政治」ではなく「行政」であった。既に方向性を定められたことを、具体的な政策手段に落とし込み、行政組織が実行していくというプロセスだった。ゴジラの排除という方策を、淡々と推し進めていくプロセスの描写であった。

 それでは、わたしの言う「政治」とは何か、政策を実行する以前の段階、あるいは政策を実行していく中における、矛盾の調和、対立の調停のことだ。かつて政治学者・永井陽之助は「月に人間が行けるのは、月と地球との間に人間がいないからだ」「矛盾の統一とはアートである、政治は一種のわざである」という言葉を残している。この言葉は実に政治の性質を示していると思う。

 このままではいささかとっつきにくい、永井の言葉をわたしなりにかみ砕くなら、意味するところはこうなる。経済的な利益、人の情、合理性、道徳・倫理的側面、などなど、ある問題が論じられるとき、考慮されるべきものとして取り上げられる論理や価値観は多岐にわたる。こうしたものが併存したままで問題を処理できるのであれば問題はないが、現実の世界ではAという要素を優先したことで、Bについて不利益が生じるといった、矛盾や対立、不協和音を生じる。そうしたことをめぐって人間や集団が争うとき、どのような形で調停を行ない、問題を解決に進めることができるのか。それを達成することこそが、「政治」というアート(わざ、技芸)の最大の焦点であるということだ。

 こうしたものとして政治をとらえるとき、現実社会、とりわけ代議制民主政治が導入された社会において、このアートを駆使することを期待されている主たる存在が職業政治家であることがわかる。行政の担い手である官僚機構が特定のロジックに基づき、政策を実行できるのであれば何の問題もない。しかし実際にはしばしば論理は衝突し、あるいは感情面でも激しいもつれを引き起こす。そうした局面で方向性を定め、優先順位付けをし、あるいは当事者同士に妥協を求めるといった手段を駆使し、調整を行なう使命こそ、職業政治家に与えられているものといえる。かつて唱えられた「痛みを伴う改革」などといった政策パッケージを社会に提示できるのは、官僚ではない。それは本来政治家のみに可能なことである。

 さて、政治をこのように考えるとき、シン・ゴジラの前半部にそのような意味における「政治」や、「政治家」は、存在しただろうか。スクリーンに登場する日本政府の面々が相反するものにもだえ苦しむ様子はまず現れない。ゴジラの最初の上陸の際、射線上に避難民が発見されたことで、大杉漣演じる大河内総理がヘリによる攻撃を躊躇するシーンくらいであろうか。それから後はひたすら、行政は歯車のようにスムーズに動き、職業政治家であろう大臣たちもその一部として淡々と行動していく。矛盾や対立は表出することもなく、整然と進む。

「政治」なき世界のタバ作戦
 ところで、既に世に出ているシン・ゴジラ論の中には、本作の政府描写に、太平洋戦争における戦争指導の混乱や、縦割り行政や、あるいはイギリスBBCのコメディドラマ『Yes, Minister/Yes, Prime Minister』に描かれたような、政治家と官僚という、異なる立場の人間がかもし出すフリクションの要素を見出していた人もいたが、わたしはそれに同意できない。

 東京中心部と日本政府が壊滅する前半部のクライマックスに至るまで、政府組織は見事に一致団結して機能しているように描かれていたし、政官関係の不協和音もとくだん描かれてはいなかったからだ。五年前に現実に起きた、最悪の事態がわかっていても手を抜いたことでもたらされた「想定外」と異なり、文字通りの「想定外」に対して、シン・ゴジラの世界の日本政府は、行政は、よく対応していたといえるだろう。そして、それこそが本作における描写の問題だったと思われる。

 本作を「政治」の希薄さ、行政の論理の貫徹という観点でとらえると、それはゴジラの再上陸後、多摩川にて行われる自衛隊との戦いのシーン(タバ作戦)で頂点に達していた。ここで自衛隊は複数の作戦計画の中から、状況に応じた計画通りの作戦を実施する。しかしながら敗れる。相手はなにせ「想定外」であるから、負けたこと自体は仕方ない。大体において怪獣映画で自衛隊があっさり勝ってしまってはしまらない。

 それはそれとしても、なぜ多摩川だったのだろうか。作中では「首都侵入を許してはならない」というセリフが登場する。つまり首都の防衛、戦力の集中という観点からそれがなされたという風に考えるべきなのだろう。しかし、再度立ち止まって考えたい。それでは、神奈川県民900万人の生命と財産はどうなるのか。

 作中でこの問題は触れられていない。これが初回の上陸の際の決断、一刻の猶予もない時点の決断であれば、まだしも理解できなくはない。しかし、作中では最初の上陸から再上陸まで一定の時間的猶予があったように描かれている。官邸の新聞記者たちの「首都圏偏重の守り」といった会話も出てくるが、それもこの作戦の状況を示唆しているとは思えない。鎌倉に再上陸したゴジラは、神奈川県を蹂躙し、東京都との境界である多摩川に至りはじめて日本からの攻撃を受ける。なるほど首都侵入阻止やゴジラ迎撃のためにはそれも一つの手段だが、先述のとおり神奈川県は置き去りである。これはどういうことか。まさに「政治」が駆動すべき矛盾はなんら解消されず、放り出されたまま、軍事的合理性という論理がここではむき出しになる。

 わたしは、太平洋戦争末期、現実には起こらなかった連合軍の関東平野上陸作戦を題材にしたボード・ウォー・ゲームをプレイしたことを思い出した。日本軍側でプレイしたわたしは、湘南海岸に上陸した米軍との決戦を多摩川で行うことを企図した。それが一番戦いやすかったからだ。もちろんゲームであるから、わたしは関東平野を逃げ惑う避難民のことなど想像もしなかった。シン・ゴジラにおける自衛隊は、わたしのプレイを再現していた。

後半部における「政治」の発現、そしてアメリ
 さて、ゴジラの熱線放射以後を描く後半部では、前半部ではほとんど見ることができなかった「政治」が現れる。国連安保理―実質的にはアメリカ―による、ゴジラ核攻撃通告への対応という局面においてである。核攻撃を甘んじて受け入れ、首都とそこに住む人々の生活を失う代償に、復興支援を受け入れるのか、それとも被害を局限するゴジラ凍結プランを実施段階に進める賭けに出るのか。作中では後者が決断される。

 極限の決断としての「政治」を強いるのが、何よりもアメリカであるという本作のストーリーは興味深い。映画『パトレイバー2』のクライマックス直前、架空の「戦争」を再現してみせたテロリスト・柘植の前に、マヒ状態となった日本に対し「明日の朝までに状況が打開の方向に向かわなければ、米軍が直接介入する」という米国からのメッセージが投ぜられる瞬間を思い起こさせるものがあった。さて、わたしの二点目の違和感はここにある。アメリカ、いや「日米関係」の描かれ方である。

 アメリカに小突かれる形で決断を促された日本は、なんとか時間を稼いで準備を整え、自力でゴジラ凍結作戦(ヤシオリ作戦)を決行する。作中では日本とアメリカの関係について、日本人の登場人物たちが「属国」「戦後は続くよ、どこまでも」「傀儡」という刺激的な言葉を駆使する。こうしたキャッチーな言葉づかいや、核攻撃という屈辱を退け、自らの努力によってゴジラという難題を解決する作品展開に、本作におけるナショナリズムを見出すような議論も見られた。こうした日米関係の描写について、「国家には永遠の友も同盟もない」というパーマストン子爵のよく知られた言葉を引用して、訳知り顔でうなずくこともできるかもしれない。しかし本当にそれが可能だろうか。あらためてヤシオリ作戦のプロセスを考えたい。

 作戦のプロセスを思い返す時、この日本のプライドを賭けたヤシオリ作戦で、無視できない役割を果たすのがドローン部隊であることを思い出す。無人在来線爆弾の強烈な存在感の陰に隠れてしまった感があるが、波状攻撃を加えるドローンはゴジラのエネルギーを消耗させる捨て石となり、血液凝固剤注入への突破口を開く重要な位置づけを担っている。そして本作中のセリフによれば、このドローン部隊は、「在日米軍兵士の友情」で貸し出されたものだ。

あまりにも軽い「属国」という言葉
 首都への核攻撃の容認という極限の決断を突き付けながら(この通告に対し、わなわなと腕を震わせ、机に拳を叩きつける嶋田久作演じる片山臨時外務大臣の姿は、本作随一のシーンであった)、日本側が独自の作戦を提示するや、「友情」で作戦に不可欠のドローン部隊を提供するアメリカ。一族の来歴を振り返り、再度日本に核は落とさせないと奔走する日系アメリカ人の特使、パタースンらの力によって、政権内部の核攻撃推進論を押しとどめるアメリカ。これをどのように考えればよいのだろうか。

 わたしは一連の描写を劇場で観ながら、「属国」と自分たちのありようを自嘲しているように見えて、その癖いざという時には「宗主国」の温情に期待し、甘える、自分たちを卑下する言葉どおりに振る舞う、属国根性を見せつけられたように感じていた。ドローン部隊を「友情」で与えられなければ、高層ビルを破壊するために巡航ミサイルを発射するミサイル駆逐艦が提供されなければ(これは何の説明もなく登場する)、ヤシオリ作戦はどのように展開されたのだろうか?永遠の友も同盟もない、などという高尚なものはそこには存在しない。そこにあるのは「属国」といった刺激的な単語に批判的に言及しながら、結局「宗主国」の温情によってなんとか物事をなす、哀れな属国の姿である。

 ここで現実の日米関係の姿を振り返ってみたい。日米関係の来歴は、こうした作中のそれとはいささか異なった姿を示している。無残な敗戦から出発した戦後日本は、冷戦の勃発以来、核の傘に代表されるアメリカの手厚い安全保障を提供されつつ、経済大国として発展した。そして1970年代以後の世界においては、アメリカと手を携えて国際秩序で支える大国へと変貌した。安全保障の面におけるある種の非対称性は無視できるものではないが、この面でも日本は決して軽んじられるほど脆弱でもなかった。また、地理的にも変わらずアジアの要衝であり続けていることも無視できない。

 長い戦後の間に日米関係が大きく変貌してきたという歴史的事実をあらためて意識しながら、1993年の衆議院総選挙の際の政権放送で、宮澤喜一総理(当時)が述べていた言葉を参照してみよう。当時日本はバブル経済がはじけ、「失われた20年」に入りつつある時期にあったとはいえ、アメリカと並び立つ世界第二の経済大国であった。宮澤は直前に開催されたG7東京サミットの成果と、国際平和協力法(PKO法)の意義を強調する文脈で、このように語っている。

どんな問題でも各国の首脳は必ず、日本の代表であるわたくしの方を見て、日本が何を言おうとするのかなと注目をする、そんな時代になったわけでございます。戦後、みんなが懸命に努力したおかげで、日本は豊かな国になりました。そして、いま、世界有数の経済大国として、わが国にはそれにふさわしい貢献が求められております。…

 宮澤は戦時下大蔵省に入省し、占領期には英語力を買われてGHQとの折衝を担当し、しばしば屈辱的な経験をしたといわれる。その後宮澤は政治家に転身し、自民党有数の国際派政治家として着実にキャリアを重ねていったが、そのような人物がかかる言葉を発しているのは何とも印象深い。敗戦から半世紀弱が経過していたこの当時、宮澤は確かに日本が、日米関係をはじめとする国際秩序が変貌していたことを実感していたのだろう。ともすれば今を生きる人間が忘れがちなことではある。

 また、アメリカにとっての日本の価値、ということを考えるとき、東日本大震災直後の日本やアメリカの政府の対応を描いた船橋洋一『カウントダウン・メルトダウン』を参照してもよい。同書では福島での原発事故によって生じた放射能の影響をめぐって、米国政府内で鋭い対立が生じたことが描かれている。多数の在日米軍兵士とその家族が日本に居を構える国防総省は退去範囲の拡大を求め、一方で国務省はその後の同盟関係に修復しがたい傷をつけることを恐れ、拡大に激しい抵抗を示した。そこには単純な「宗主国」「属国」という垂直関係では捉えがたいものが日米両国の間にあることがわかるはずだ。それはおよそ愛情ではなく、打算的なものかもしれないが、お互いがお互いを必要としていることは理解できるだろう。

 しかしながら、シン・ゴジラにおける日米関係はそのようなものではない。本作の主人公である内閣官房副長官矢口蘭堂は、作中できわめて政治家的な気質を持った人物であるという紹介がなされていた。しかし、ヤシオリ作戦を展開する際に、このような日米関係の現実に立脚して、いわばアメリカの「足元」を見る形で何らかの手腕を発揮したという様子は描かれていない。また作中では「地政学的に…」と中露の立ち位置を説明する部分はあるが、日本自身のそうした価値に視点が向けられる様子はなかった。日本はあくまで「属国」だと憤慨しながら、アメリカの温情に支えられながら「属国」であり続けるのである。

 パタースン特使の描かれ方に注目しながら、日米関係があまりにアンバランスなものとして描かれることについて、製作者側がどうせ複雑なものは理解されない、こんなもので良いだろうと手を抜いたのではと指摘する評論もあったが、この見立ても不適当とまた思われる。問題はより根深いもので、戦後日米関係についてのイメージがいかに固定化されているか、という点にあるといえるだろう。シン・ゴジラにおける日米関係とは、占領下撮影された昭和天皇マッカーサーが並んだあの写真に象徴される、支配と従属の日米関係というイメージの再生産でしかない。そしてこうしたことを考えていけば、ポリティカル・フィクションというジャンルにおいて、戦後日米関係を適切な距離感をもって描くことに成功した作品というものが、まず見受けられないという絶望的な事実にも人は気づくだろう。

 そうしたものの凝縮が、シン・ゴジラにおいて軽々しく使われる「属国」という言葉であり、「友情」で貸与されるドローン部隊であり、日本のために奔走してくれる日系アメリカ人ということなのだろう。

映像の快感に万歳二唱
 わたしのシン・ゴジラへの違和感は、「政治」の必要もなく、行政の論理が貫徹される日本政府、挑発的な表現をちりばめているようで実は極めていびつな形で描かれた「日米関係」という二点にあった。

 なぜこうなったのだろうか。勝手に推測すれば、前者については、本作が何よりも、映像表現を追求した作品であったからだと考えられる。製作者側の関心は政治の現場でどうした論理が戦わされ、何が起きるかを描くことではなく、「行政が機能する映像」をスクリーンに映すことにあった。いわばロボットアニメでメカが稼働する様子を精密に描き、それらしさをアピールするように、行政の「リアル」な映像を撮りたかっただけだったのだと思われる。政治の泥臭い心情描写や、駆け引きや、それを粘つくような映像に変換することにはもともと関心がなかったのではないか。

 後者の日米関係に関して考えれば、先述したように、日米関係を適切に描くことができたフィクションがほとんど存在しないという根源的問題に行きつかざるをえない。それを変えることは容易ではなかったのだろう。もう一つはドローンや巡航ミサイルというスマートなガジェットによって、あのヤシオリ作戦を描きたかったのだろう、と考えるほかない。

 さて、このような邪推までした上で、シン・ゴジラという作品が、わたしが指摘した要素を加味するべきと考えるかといえば、そうではないと答える。本作を映像美を追求した作品と考えるとき、わたしが縷々書いてきたことは必ずしも必要ではないと考えるからだ。

 ただ、わたしはシン・ゴジラを「リアル」だともてはやすシン・ゴジラ論には、この二つの違和感を提起したいとは考えている。本作はわたしが指摘したような点でなんら「リアル」ではない。ゴジラに対して防衛出動を発令するのが現実的だとかなんだとか述べること自体がばかばかしい。それ以前の問題なのだ。

 それにしても、映像の快感に満ちた作品であった。とにかく、それに尽きる。