2017年の本

 「今年も何か書こうと思っていたのだが…」と始めるのはもはや前口上以上の意味はない。昨年に比べて色々と忙しく、読み通せた冊数は昨年より減り、70冊程度だった。印象に残った本について、例年通りある程度のまとまりをもって整理したい。

■外交史
 外交史研究で関心を引いたのは、佐々木雄一『帝国日本の外交』、服部聡『松岡外交』、山本章子『米国と日米安保条約改定』、添谷芳秀『日本の外交―「戦後」を読みとく』の四冊だった。

 最初の二冊は戦前日本の外交史研究である。たまたま今年の年初に細谷千博『両大戦間の日本外交』(岩波書店、1988年)を読み返すことがあったのだが、その際つくづく感じたのが、戦前外交史の泰斗たちの議論の強固さであった。
 よく知られているところであるが、戦前日本の外交史研究は、それが破滅的な敗戦に至ったという事実、更に大方の史料が敗戦により公開されたという背景が重なり、1950年代後半頃からその後の議論のおおよその方向性を決めるような研究が次々発表されている。もちろん細かな事実の訂正や、当時の研究が素通りしたものの個別実証は可能であろう。しかしそれがどこまでの意義を持つのか?そのような悩ましい問題を後進に突きつけてきたことは間違いがない。上記の細谷の著書も、まさに細谷が50年代末から70年代にかけて発表した、そのような先駆的研究をより集めた論文集である。
 かかるハードルの高い戦前外交史研究にどのように挑むか。それに対して今年読了した本の中でも特に興味深いアプローチを採用していたのが、『帝国日本の外交』と『松岡外交』だった。

佐々木雄一『帝国日本の外交 1894-1922―なぜ版図は拡大したのか』(東京大学出版会)
 本書が採用したアプローチは19世紀末から1920年代までの日本外交の行動習性の抽出であり、そこから副題の「なぜ版図は拡大したのか」に答えようとするものである。本書が描く日本外交は、「軍部の暴走」「二重外交」といったものに翻弄される騒々しいものではなく、意外なほど静謐である。
 本書のいう日本外交の行動習性とは、何事においても、自国の「利益」が確保できるかにこだわり、その利益が(多少強引でも)既存の条約など依拠しうる根拠を持って主張できるかという「正当性」にこだわり、利益が正当性をもって主張できるなら、その利益を得られるか、あるいは同等の代価を得られなければおさまらない(武力行使も辞さない)という「等価交換」にこだわる日本外交である。
 そしてこうした習性は基本的にぶれることなく、首相・外相・外務省を中心とした外交指導の中で一貫され続ける。ただし満蒙権益などを典型として、かなりきわどい根拠を元に得た「利益」が、いつしか当然の利益へと認識が変質していくという危うさも秘めていたことも本書は指摘する。
 外交的な大事件をトピック的に取りあげるのではなく、30年弱の期間の日本外交を一貫して描くという方法によって、本書は今まで見えてこなかった性質を描くことに成功している。これは興味深いところであろう。
 ただし利益や正当性、その帰結としての等価交換にこだわるのは果たして戦前日本外交だけの習性か、それは内政や、あるいはその他の国の外政機構と比較してどうであるのか、という疑問も湧いてくる。当然ながら国際環境の変質とも無関係に(無頓着に)同じ行動を繰り返したというのは本当だろうか(あまりに下等生物的ではなかろうか)、という疑問も生まれてこよう。とはいえこうした問いは不愉快な疑問ではなく、純粋に本書に触発されることで生まれてくる疑問である。
 また本書の別に優れた点は、こうした習性を抽出するにあたり、網羅的にこの時代の史実の再検証を行っていることだろう。例えば日英同盟対日露協商という政策路線対決について、また21か条要求をどのように評価するかなど、こうした史実の解釈についても著者は果敢に挑戦を試みている。戦前外交史研究の論点や、その評価の最新状況が把握できるレファレンスとしても、本書に非常な価値があることは間違いない。

帝国日本の外交 1894-1922: なぜ版図は拡大したのか

帝国日本の外交 1894-1922: なぜ版図は拡大したのか

服部聡『松岡外交―日米開戦をめぐる国内要因と国際関係』(千倉書房)
 本書が対象とするのは、まさに先述の細谷千博が通説的解釈を提示した松岡外交である。松岡外交についての一般的理解として定着しているのは、松岡が日独伊の三国同盟ソ連を加えた「四国協商」を形成し、米国に対する力の均衡を築くことを目指していたというものである。しかし松岡は独ソ戦が勃発するや否や、自分が二か月前に中立条約を調印したソ連をドイツと共に挟撃することを主張している。こうした松岡の異常性は、説明不能なものとしてある意味放置されてきた。
 本書はここに「戦時外交」という時限性・流動性を読み込むことで、再解釈に挑戦しているといえる。松岡外交に四国協商のようなグランド・デザインはなく、ここの政策は日々の情勢判断の中で生まれたものだった、というのが本書の解釈である。詳細は本書を読んでいただきたいが、既に欧州戦争が勃発し、主要国の力関係が平時以上のスピードと振れ幅で日々変化する中で、松岡は時々の情勢判断に基づき、政策を打ち出さざるを得なかった。対米関係を意識して様々な勢力と切り結びつつ、効果的に南進を実行する態勢をどのように構築するかが松岡の関心事であり、その中で政策は臨機応変に形成されたのである。本書を読むことで松岡外交は静態的、かつ錯乱した構想をもったものではなく、動態的で、(少なくともその都度の瞬間的には)合理的な構想をもったものとして、読者の前に再現される。
 この時期の日本外交は史料が十分に残っていないなどのネックを抱えていたが、本書は米国による日本の外交電報解読情報(マジック情報)などをこの補完の為に駆使し、かかる松岡外交の情勢認識を明らかにしている。史料的な制約から、松岡による最終的な意思決定は類推せざるを得ないという弱さはあるが、刺激に満ちた一冊であることは間違いない。多少刊行から時間を経ているが、本書の面白さに気付けたのは昨年宮下雄一郎『フランス再興と国際秩序の構想』を読み、「戦時外交」の時限性・流動性に気付かされたからであった。そういう意味で本書は私にとって「今年の本」であったので取り上げた。

松岡外交- 日米開戦をめぐる国内要因と国際関係

松岡外交- 日米開戦をめぐる国内要因と国際関係

山本章子『米国と日米安保条約改定―沖縄・基地・同盟』(吉田書店)
 戦後外交史も引き続き活発な研究が進んでいるが、今年は心なしか刊行点数が少なかったように感じられた。その中で一番面白い議論を展開したのが本書である。
 本書は安保改定交渉について、米国側、特に軍部(統合参謀本部)に焦点を当てたものである。安保改定交渉の研究において従来焦点を当てて分析されてきた米国側のアクターは、国務省や駐日大使館といった外交当局者であった。しかし本書は近年公開が進んだ軍部の文書を分析し、軍部こそが安保改定に対する最大の「抵抗勢力」であり、彼らが同意したことこそが転換点であったことを鮮やかに描いている。
 端的に要約するなら、軍部が安保改定に同意したのは、日本本土の基地の重要性が低下したからであった。1950年代後半の東アジアでは、朝鮮戦争が休戦状態となり、焦点は東南アジアや台湾へと移っていた。更にスプートニク・ショックなどを受け同盟国への動揺が広がる中で、軍は沖縄を軍事基地として確保しつつ、事前協議制度の調整や朝鮮半島有事の際の米軍出撃を認める「朝鮮密約」により、本土の基地機能を現状(旧安保)のまま維持できるなら安保改定を認める、という条件を米政府部内に提示し、その後の交渉でその達成を目指していくことになる。同時にそれは返還前で安保条約の制約を受けない、沖縄の基地負担増大という現状にもつながっていた。
 本書の意義は、軍部というアクターを組み込むことで従来の研究では必ずしも指摘されてこなかった、安保改定の持つ「構造」を明らかにしたことであるといえる。ただ構造を描きつつ、あえて分析対象を岸・アイゼンハワー期に限定するならば、米政府部内の政治(国務省国防総省・統合参謀本部間)などを描くことでより重層的なものが描けたかもしれないと思われる。いずれにせよ、重要な研究となることは間違いないだろう。

米国と日米安保条約改定ーー沖縄・基地・同盟

米国と日米安保条約改定ーー沖縄・基地・同盟

添谷芳秀『日本の外交―「戦後」を読みとく』(筑摩書房・ちくま学芸文庫)
 最後に取り上げるのは概説書である。2005年にちくま新書で出版された『日本の「ミドルパワー」外交』のアップデート版である本書は、コンパクトながら占領期から現代まで、戦後日本外交を歴史的に通観するのに優れた一冊である。また今年は同じくちくま新書で出版された宮城大蔵『海洋国家日本の戦後史』もちくま学芸文庫で出版された。最近のちくま新書の日本政治・外交関連は首をかしげるような本も少なからず出ているが、こうした本が復刊されるのは喜ばしいことである。
 さて、本書で強調されるのは、憲法九条と日米安保条約という二つの柱からなる「吉田路線」に収斂せざるを得ない戦後日本外交の実情である。時にこうした構造を意識してか知らずか、ゴーリスト的に、あるいはパシフィスト的に振る舞おうとする政治指導者が出てきたが、それは現状の構造を変えることはなく、戦後日本外交は結局吉田茂の選択の範囲内で歩みを続けてきた。著者はこの構造を「見えざる手」として扱うのではなく自覚的に承認すること、またそれを前提とした外交戦略の構築(新書の時の表現であれば「ミドルパワー外交」の展開)を訴えており、その一貫性は評価できるところである。
 ただ本書の最大の難点は主張ではなくワーディングであろう。本書で著者は「ミドルパワー」という言葉がかつて誤解を与えたとしてそれを取り去っているが、果たしてそれでいいのだろうか。また現状の安倍政権が進める、戦後レジーム否定と日米安保強化が提携した外交路線を「安倍路線」、またその前段としての戦後レジーム日米安保の双方を否定する外交路線を「日本中心主義」と名付けているが、いずれについても文言の違和感がぬぐえない。政策を提言していくのであれば、ワーディングに対してはより慎重であるべきと思われるだけに、やや残念である。

日本の外交: 「戦後」を読みとく (ちくま学芸文庫)

日本の外交: 「戦後」を読みとく (ちくま学芸文庫)

■現代
 現代に関連する本としては阿南友亮『中国はなぜ軍拡を続けるのか』、遠藤乾『欧州複合危機』、ロバート・ケーガンアメリカが作り上げた”素晴らしき”今の世界』が印象に残った。

阿南友亮『中国はなぜ軍拡を続けるのか』(新潮社)
 本書は改革・開放以後の中国の40年を描きながら、タイトルの問いに答える中国現代史である。本書の魅力はその構造的な議論の展開だろう。そこで取り上げられている無数の事実は、報道などで断片的に見聞きしてきたものだが、それがパズルのピースのようにかみ合っていく快感がある。
 本書の焦点は「バランサー」訒小平の功罪である。文化大革命から一転して、訒小平ら最高首脳部が改革・開放を進める中で、中国国内の格差は拡大し、また民主化要求は高まり、そうした不満は六四天安門事件を頂点とする形で噴出した。また国外では冷戦終結と東欧の共産圏ブロック崩壊が生じていた。このような情勢下でも訒小平共産党からの権力移譲はかたくなに認めず、暴力装置としての人民解放軍に依存し、体制を引き締める道を選択する。ここに代償としての軍拡への道が開く。また一方で、訒は中国との経済協力にメリットを見出す自由主義諸国と提携した経済発展路線を維持発展させた。それは格差の拡大と、民主化活動家の孤立無援を意味していた。
 先述したように本書はその構造的な記述で他を圧倒する。強大な軍事力と格差、多くの軋轢を抱えた今日の中国が誕生したのは、一義的には中国共産党の責任であるが、同時に著者は周辺諸国の対応もまずさも指摘する(特に天安門事件後、早期に中国への制裁解除に向けて動いた日本への批判は激しい)。そして本書はこうした中国の実情を踏まえた上で、「対中政策のオーバーホール」を行なうことを提唱している。
 なんとも壮大な「どうしてこうなった」の歴史であり、いちいち記述される内容に膝を打つと共に、鉛を飲み込んだような気分になる一冊でもある。

中国はなぜ軍拡を続けるのか (新潮選書)

中国はなぜ軍拡を続けるのか (新潮選書)

遠藤乾『欧州複合危機―苦悶するEU、揺れる世界』(中央公論新社・中公新書)
 本書は欧州連合EU)諸国のウクライナ危機、ユーロ、難民、テロなど、複合的な危機の状況を描く一冊である。日本屈指のEU研究者が、EUの構造に由来している、あるいは促進されている危機を構造的に分析しており、時事問題を追うジャーナリスティックな記述と構造的な説明が連動しており小気味よい。
 本書はともすればすぐ崩壊という議論に飛びついてしまいがちな、EUという特殊な共同体を多面的に見る点で有益であり、それはひるがえって国民国家体制についても多くの知見を与えてくれる。山崎正和は本書について「秀抜な国家論」とも評しているが、全くその通りであるといえるだろう*1。本書は2016年10月に出版された関係で、当然ながらその後にあったオランダ、フランス、ドイツなどの選挙は反映されていない。ともすれば水物の本と思われるかもしれないが、本書のリーチは十分に長いと考えられる。一年以上を経た本エントリの執筆時点でも依然有益な一冊だと思われる。

ロバート・ケーガン(副島隆彦・古村治彦訳)『アメリカが作り上げた“素晴らしき"今の世界』(ビジネス社)
 「安全保障は酸素のようなものである。失ってみたときに、はじめてその意味がわかる」という言葉はある国際政治学者の言葉であるが、本書はそのフレーズを想起させる一冊であった。元々は2012年の米大統領選挙の際、ミット・ロムニー陣営に与した著者が政治パンフレットとして書いた本であるが、本書はオバマ政権のその後の対外政策路線にも影響を与えたと言われる。
 本書はアメリカ衰退論に対抗して、アメリカの覇権と世界秩序維持への責任を論じるものだが、その指摘は意外と冷静である。軍事力における卓越性、開放的なコミュニケーションの提供、世界のGDP総計におけるアメリカの一定のプレゼンスといった実態を指摘しつつ、「文句はあっても、悪意が乏しく、嫌々やっていることがわかるアメリカの世界への『おせっかい』を国際社会は許容している」とする。
 第二次世界大戦後、世界秩序構築にアメリカ(とその同盟国)が果してきた役割を振り返りつつ、ケーガンは、実力という意味でもインセンティブという意味でも、果たしてこうした責任を負う国が他にあるだろうか?と問うている。
 想像されたよりはマシとはいえ、自国優先を掲げる米国の政権の乱痴気騒ぎと、中国やロシアといったおよそ「気前のよい」秩序維持には関心がない国家の台頭が指摘される今日、ともすれば動揺するところであるが、情勢判断においてどこに立脚すべきかを再度思い起こさせてくれる一冊ではあった。

アメリカが作り上げた“素晴らしき

アメリカが作り上げた“素晴らしき"今の世界

■政治
 政治というカテゴリーも広いが、今年印象に残ったのはピーター・バーガー/アントン・ザイデルフェルト『懐疑を讃えて』、宮澤喜一中曽根康弘憲法大論争 改憲vs.護憲』、萩原稔/伊藤信哉編『近代日本の対外認識II』、河野有理『偽史政治学』の四冊であった。

ピーター・バーガー/アントン・ザイデルフェルト(森下伸也訳)『懐疑を讃えて―節度の政治学のために』(新耀社)
 本書のテーマは、近代化の進展により自明のものが次々掘り崩された現代社会において台頭した二つのイデオロギー相対主義ファンダメンタリズムといかに対峙し、一線を守った思索を行なうかという問題である。
 あらゆる価値観が相対化する中で、底が抜け、ただのニヒリズムと化した相対主義と、「あったはずの価値観」を掲げながら、自分たちが相対的なものに過ぎないという不安を実は知っているファンダメンタリズムの双方を退けるために著者らが採用するのは、「懐疑」を伴う思索である。
 ただ疑うのであれば相対主義と変わらないが、本書の懐疑はそこにボトムラインを引いている。つまり歴史的、社会的に形成された人道、あるいは人間性(humanity)を否定するものは、断乎として拒否するということである。そして著者らはこうした懐疑の態度を政治運営の中に組み込んでいる、組み込みうるという点において、リベラル・デモクラシーと、それを支える国家、市場、市民社会の鼎立を擁護する。
 本書は近代主義の礼賛である。しかし論理的に考えて行けば底が抜けるところまで行ってしまう、というジレンマがある時、歯止めをどのように構築するのかという点で、個人的には非常に有益な一冊であった。
 無論言うは易し、行うは難しで、このような近代主義者の地盤が崩れていることこそが問題であるのだが、それはまた別の問題である。

懐疑を讃えて―節度の政治学のために

懐疑を讃えて―節度の政治学のために

宮澤喜一/中曽根康弘『憲法大論争 改憲vs.護憲』(朝日新聞社・朝日文庫)
萩原稔/伊藤信哉編『近代日本の対外認識II』(彩流社)
 近代主義と政治、という連想ゲーム的なもので言うと、やはり興味深かったのがこちらの二冊である。護憲派改憲派の二大巨頭の憲法論議かと思いきや、むしろ本書は二人の政治観を浮き上がらせている。
 本書において双方は戦後日本の平和的な歩みを評価しつつ、議論の仕方において違いを見せる。一方の中曽根はわかりやすいほどの近代主義者である。憲法は時代の実情に合っていない、国民の気風を削いでいる、だからこそ現行憲法の理念を活かしながらよりよい憲法を作る為、公正明大に改憲論議をしたいと訴える。
 他方の宮澤はずっと興味深い。改憲に一定の意義を認めつつも、政治的なリソースを大きく浪費するほどの意義があるのか疑義を呈し、既に現行憲法を使いこなすことに習熟しているのであるし、「あのドイツでも二回間違えた」からと日本もどうなるかわからないと述べる。一方で集団的自衛権の行使(この当時の政府解釈は保有しているが行使できないだった)について、日本近海とアメリカ近海で米軍艦船を助けることを一緒にするのは「学者ばか」のすることだと論じている。
 中曽根の明朗極まりない政治観と宮澤の秘教めいた政治観は全く噛みあわない。宮澤の発言はどこかしら「牧民」的でさえある。しかしどちらが有効であるのか、しばし考えさせられるところがあった。
 また、このような中曽根のある種のモダンさの来歴については、『近代日本の対外認識II』所収の小宮一夫の論文「『改憲派』の再軍備論と『日米同盟』論―徳富蘇峰・矢部貞治・中曽根康弘」にも教えられるところが多かった。ひるがえって宮澤の来歴が気になってしまうところでもある。

近代日本の対外認識 II

近代日本の対外認識 II

河野有理『偽史の政治学―新日本政治思想史』(白水社)
 本書はタイトルとなった権藤成卿を扱った論文をはじめ、明治以後の多種多様な政治構想を扱った論文集である。政治の実践に関して「演説」を重視した福澤諭吉に対して、「翻訳」を重視し、そこから「道」を求めようとした阪谷素、偽史の著述を通じて自らの社会構想を語った権藤成卿、「いやさか」によって一種の共同体構築を目指した後藤新平など、一見登場する人間は奇矯な人間ばかりである。
 もちろん本書はそうした珍獣名鑑として読んでも飽きないが、政治思想史の方法論を扱った記述であり、またそのミッションを示した記述である序章「丸山から遠く離れて」を一読すると、日本政治思想史として彼らを扱う意味が明瞭にわかる。この一本線を通した序章を読むと、彼らはただの珍獣ではなく、ともすれば狭く考えてしまいがちな「政治」という概念の幅の広さを提示してくれる存在として立ち上がってくるのである。そうしたことを想起させてくれる点でも、正しく政治思想史の仕事といえるだろう。

偽史の政治学:新日本政治思想史

偽史の政治学:新日本政治思想史

■歴史
 このカテゴリーの本としては、大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』、前田亮介『全国政治の始動』、富田武/長勢了治編『シベリア抑留関係資料集成』が印象に残った。

大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判―中国共産党の思惑と1526名の日本人』(中央公論新社・中公新書)
 本書は中国で戦犯として裁かれた将兵と、彼らをめぐる中国の対日政策を扱った研究である。中国政府は戦犯に寛大な判決と、戦争犯罪を強く認めさせる「認罪」を行なわせる。中国政府は彼らを触媒として、中華民国と国交を結んだ日本との接触を試みる意図を有していたが、これは奏功せず、やがて中国は自民党政権との接触を開始する。一方で帰国した将兵は「中国帰還者連絡会」を発足し、日中和解に奔走するようになるが、それはその後の日中関係の展開の中では齟齬もきたすようになる。
 本書の魅力は、何よりも現代史ならではの著者と中帰連という題材の距離感の近さにある。外在的に見た時、贖罪に奔走した中帰連を「洗脳された」というロジックで説明するのは容易である。しかしながら、本書は著者ならではの距離感によって、実際に戦場で過酷な体験をした将兵が彼らなりの贖罪を果そうとしたという、内在的なもう一つのロジックが暗に提示されている(特に分裂した「中帰連(正統)」の一種異様な贖罪へのこだわりを説明できるのはこのためであろう)。
 また一方で、本書の著者がただ対象に寄り添うのではなく、歴史家として冷静に、彼らを利用しようとした中国政府の思惑という政治のダイナミズムも描いていることが本書を際立たせている。政治のダイナミズムと、「戦争と折り合いを付けられなかった(折り合いを付けられないように仕向けられた)」人たちの生きざまが交差する、優れた歴史であると感じられた。

前田亮介『全国政治の始動―帝国議会開設後の明治国家』(東京大学出版会)
 本書は1890年の帝国議会の開設後、利益調整をおこなう「全国政治」のシステムがどのように形成され、政党がいかに伸張したのかを描く研究である。
 大きなテーマに対して編年で幅広い叙述をするのではなく、本書が各章で扱うテーマは北海道政策、地価修正、治水、銀行と個別具体的である。しかし本書の興味深い点は、この「おいしいとこどり」といいった感のある四つの政策争点を連ねていくと、確かに「全国政治」というビジョンが浮かび上がってくることであろう。
 政治叙述のあり方として非常に面白く、考えさせられるところが多々ある一冊だった。

全国政治の始動: 帝国議会開設後の明治国家

全国政治の始動: 帝国議会開設後の明治国家

富田武、長勢了治編『シベリア抑留関係資料集成』(みすず書房)
 本書はシベリア抑留の始まりから戦後補償まで、日米ソから幅広く主要文書を渉猟し、邦訳編集した資料集である。シベリア抑留研究会の発足以来、精力的に続けられている学術研究としてのシベリア抑留の成果物として、刊行されたことを高く評価したい。

シベリア抑留関係資料集成

シベリア抑留関係資料集成

■人物
人物に関する著作は政治家・官僚・知識人・軍人・スパイと、全く異なったものを選ぶことになった。

高村正彦『―振り子を真ん中に』(日本経済新聞出版社)
 本年「私の履歴書」として日経本紙に掲載され、間をおかず刊行された。現役の自民党副総裁の回想録である。政策通として知られる人物だが、本書の面白さは、淡々と鋭い言葉が並ぶ一方で、政治家ならではの行間で語らせる部分がにじんでいるところだろう。TPPをめぐる党内調整の話などはなんとも含蓄に富んでいる。

振り子を真ん中に 私の履歴書

振り子を真ん中に 私の履歴書

國廣道彦(服部龍二、白鳥潤一郎解題)『回想「経済大国」時代の日本外交―アメリカ・中国・インドネシア』(吉田書店)
 本書は本年物故された外交官の回想録である。題名にあるとおり、1950年代、復興が始まった頃に外務省に入省し、「経済大国」時代に幹部クラスで経済外交とアジア外交を専門領域として担った人物の回想録である。
 官僚の回想録には一般人より目を通しているつもりであるが、回想録一般と比べても、史料としての価値は高いが話は面白くないもの、あるいはその逆に話は面白いが史料としての価値は低いというアンバランスが存在するように思われる。そうした点からすると、本書は双方のバランスが調和している稀有な例であると思われる。
 細かな実務の記録、政策や人間関係についての率直な評価、時折挟まれる不器用なユーモアは、十分な密度を持っており、外交官の生き生きとした働きぶりを示してくれている。特に日本外交史に関心があるなら必読だろう。

回想 「経済大国」時代の日本外交--アメリカ・中国・インドネシア

回想 「経済大国」時代の日本外交--アメリカ・中国・インドネシア

山崎正和(御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出編)『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)
 本書は美学研究者、劇作家としてそのキャリアをスタートし、幅広く活躍した人物のオーラル・ヒストリーである。そのような特異な人間の履歴書としても、山崎自身の著作解説としても、社交や交際を軸にした文明論としても、戦後日本論としても、学際系の学問のあり方を論じた本としても、知識人と社会の関係を描いた本としても読めるという、異例の本である。良い意味でどこまでも近代的な山崎の生きざまには魅了される。
 また、本書の魅力は詳細な脚注であろう。その文献の博捜ぶりには舌を巻くばかりである。

ヘルマン・ホート(大木毅編・訳・解説)『パンツァー・オペラツィオーネン―第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録』(作品社)
 第二次世界大戦中、卓越したドイツ軍戦車部隊指揮官として知られた将軍の著作である。半分は独ソ戦初期の作戦回顧録、半分は『国防知識(Wehrkunde)』誌に掲載された戦史や作戦に関する各種文章から構成されている。訳者である大木氏の精力的な(という言葉では到底足りない)仕事の成果である。
 単純に戦史の叙述としても、また軍司令官レベルからは、このように戦場の風景が見えるのか、という意味でも本書の内容は興味深い。またその記述のスタイル、つまり後進に向けた教訓戦史であることを明瞭に打ち出していることも印象に残った。

パンツァー・オペラツィオーネン――第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録

パンツァー・オペラツィオーネン――第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録

デイヴィッド・E・ホフマン(花田知恵訳)『最高機密エージェント―CIAモスクワ諜報戦』(原書房)
 上の四点は回想録ないしオーラル・ヒストリーであるが、本書は1977年から85年までモスクワで米国CIAに情報を流し続けたソ連人技術者、アドルフ・トルカチェフをめぐるドキュメンタリーである。ソ連の現体制に幻滅し、冷静でありながら情熱的に職務を遂行し、ソ連の航空機技術開発に大打撃を与えるトルカチェフ、モスクワで最初の本格的なヒュミント活動を成功させるため、トルカチェフの身を案じながらも奮闘するCIAエージェントたちのやりとりは中々心を打つものがある。エピローグも含めて読み応えのある一冊といえるだろう。

最高機密エージェント: CIAモスクワ諜報戦

最高機密エージェント: CIAモスクワ諜報戦

■最後に
 面白かった本を項目ごとに整理していくと際限がなくなってしまい、またかえって文字数にムラが生じることとなってしまった。ここら辺でまとめとしたい。

 カテゴリに収まらない関係で最後に取り上げたいのは、谷口功一・スナック研究会編『日本の夜の公共圏―スナック研究序説』(白水社)である。社会科学・人文学を専門とする研究者たちが、日本国内に無数に存在するスナックを研究したという、一見ふざけているのかと思う一冊である。

 しかし、その内容は単純におもしろく幅が広い。スナックが法的にはどのような存在なのか、スナックが一種の公共施設として機能しているとはどういうことなのか、そもそも人にとって、酒を呑む場所とは、酒を呑む行為とはいかなるものであるのかと、社会の中でスナックという存在が盲点となっていたこと、それを見ることで多々触発される部分があることを本書は明らかにしている。

 色々とツールを駆使してみて、ただの技自慢道具自慢でもなく、また単に面白いのでもなく、見えなかったものが見えてくるというのは正しい意味で学際的ではなかろうか、そういうことを教えてくれる一冊であった。

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

日本の夜の公共圏:スナック研究序説