山師、日伊関係を揺るがす―下位春吉と飯盛山ローマ市寄贈の碑(上)

緒言
 長く外務省担当記者を務めた永野信利は、著書『外務省研究』において、対米外交の落とし穴の一つとして「自称知米派」のブローカーの存在を挙げている。この手の「議会要人とツーカー」「財界とパイプを持っている」などと自称する外交ブローカーが介在すると、わけのわからないことがしばしば起こる、という注意である。
 よかれ悪しかれ戦後日本外交にとって日米関係は大黒柱であり、この二国間関係には官僚機構がにらみを利かせてきた。そんな関係においても、この手のトラップが存在し、しばしば混乱を引き起こしてきたというのは、我々がちょくちょく見ているとおりではある。いわんや他の二国間関係においておや。そんな観点から雑文を書きたい。

 ちょっと前に読んだ本に福家崇洋『日本ファシズム論争―大戦前夜の思想家たち』(河出書房新社、2012年)がある。1920年代、イタリアに端を発した社会運動・政治思想であるファシズムと、日本の言論界、思想界がどのように向き合ったのかの思想史である。
 本書はナチスの台頭も始まる1930年代前半までを扱っている。ただ個々の論点はなかなか面白いと思うものの、自分の理解不足のせいで正直あまり本旨が掴めなかったことは告白しておきたい。この時代の少しマイナーな日本の論客たちのファシズム解釈を論じることで、それがどういう意味を持つのか、何が明らかになるのか(たとえば30年代後半台頭する「新体制」とどのような関係を切り結ぶのか、新しい光を当てるのかなど)がいまいちわからなかったのである。

日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち (河出ブックス)

日本ファシズム論争 ---大戦前夜の思想家たち (河出ブックス)

ムッソリーニ・ブーム
 自分の理解不足についての告白は置いておくとして、本書はそうしたファシズム解釈とは別に、日本の大衆一般に浸透した「ムッソリーニ・ブーム」を描いているのが面白い。全く知らなかったが、ファシズムの実践者であるムッソリーニは、その立志伝的な生い立ちもあって、20年代日本でも非常に人気を博したそうである*1。宝塚に至っては1928年1月にファシスタ党歌「ジョヴィネッツァ(青春)」で第一場が始まり、ムッソリーニやファシスタ党が登場する歌劇『レビュウ・イタリヤーナ』を上演し、ロングラン公演を記録したという。

 また新劇運動の担い手であった小山内薫が脚本を、二代目市川左団次が主演で歌劇『ムツソリニ』なんてものを上演し(1928年5月)、好評を博していたというのも面白い。ムッソリーニ姿の左団次の写真が載っているが、メイクが非常に精悍だったりするのがなんともおかしい(p.59)。同書によれば、左団次はこの公演後に訪伊し、ムッソリーニとも面会したらしい*2

 さて、このようなムッソリーニ人気が結実したものの一つとして著者が取り上げているのが、会津若松市飯盛山に設けられた「ローマ市寄贈の碑」である。戊辰戦争において多くの白虎隊士が自刃し、のちにその墓地が設けられた山で1928年12月に除幕式が行われた碑には、次のような碑文が刻まれていた*3

(表面)
 羅馬市
文明の母たる羅馬は
白虎隊勇士の遺烈に
不朽の敬意を捧げん為め
古代羅馬の権威を表はす
「ファシスタ」党章の
鉞を飾り
永遠偉大の証たる
千年の古石柱を贈る

西暦紀元千九百二十八年「ファシスタ」紀元六年

(背面)
 羅馬市
武士道の精華に捧ぐ

 「文明の母たる羅馬」という書き出しもなかなか味のある碑文だが、リンクしたホームページが言うとおり、碑文の内容以上に存在の唐突さが否めない。何の縁もゆかりもない、当時売出し中のファシスト・イタリアの記念碑が白虎隊自刃の地に立っている。八十余年経った今となっては既にどちらも歴史的存在であるが、同時代的な意識で考えだすとこれほど厚かましいこともない。大統領就任前後の頃の(日本でも比較的人気があったころの)バラク・オバマが日本の名勝に感動して記念碑を寄贈したなんて話があったとしたらば、満天下の笑いものになっただろう。なるほどムッソリーニの人気たるや大したものであったことが理解されるのである。

怪人下位春吉
 さてこの碑文、設立された経緯としてムッソリーニが白虎隊のエピソードに感銘を受け…などと説明されているホームページをいくつか見つけるが、本書に紹介されているエピソードによれば、実際はそんな麗しいものではないらしい。その陰に在イタリア日本人、下位春吉(1883-1954年)なる人物の暗躍があったのである。


下位春吉(『日本ファシズム論争』p.49より)

 下位春吉とは何者なのか。『日本ファシズム論争』文中では「東京外国語大学卒業後に、ナポリの国立東洋学院大学に招聘された経歴を持つ人物だった。この時期の彼は、ムッソリーニ、イタリア・ファシズム運動について数多くの本や論文を発表しており、イタリア・ファシズムのスポークスマンといった観がある(p.48)」とさらりと説明されている。しかし同書の脚注で紹介されている藤岡寛巳「下位春吉とイタリア=ファシズム」を読むと、この簡潔な説明だけでは済まない不可解な来歴の人物の姿を見ることができる*4
 藤岡によると、東京外国語学校でイタリア語を学んだ下位は、口演童話についての研究会を主宰し、『お噺の仕方』などの著書を発表していたが*5、1915年秋、ダンテ研究のため妻子を残して単身ナポリに向かう。ナポリにおいて下位は、王立東洋学院で日本語を教える一方、同地の文人と交際、さらに現代日本作家の作品を精力的に訳出紹介していた。
 しかし時はイタリアも参戦した欧州大戦の真っ最中である。やがて下位はイタリア軍の前線へと足を向ける。以下に藤岡の文章を少し長いがそのまま引用したい。

 第1次大戦を中心的に描いた下位の書物には、イタリア語版とこれをもとにした日本語版の2冊がある。その日本語版(『大戦中のイタリヤ』) によると、「欧州大戦乱中、私[下位] が伊国の戦線に走ったのは、1918年の夏であった。ダンヌンツィオが墺都ヴィエンナ[ウィーン] の空に大飛行を決行してから間もない頃」だったと書かれていることから、下位がイタリア軍義勇兵として参加したのは大戦末期に近かった。つまり、前年10月から11月の伊墺戦線におけるカポレット戦で歴史的大敗を喫して瀕死の状態のイタリアだったが、連合国からの増援もあり、6月にピアーヴェ川戦域で勝利して以降は優勢に転じ、ヴィットーリオ=ヴェーネトでの最終決戦(10月−11月) に備えている頃であった。
 駐イタリア日本大使館とイタリア政府との取次役を自任していた下位は、カポレット戦後に総司令官に就任する将軍ディアズ(Armando Diaz) と転地療養先で知り合うと、将軍からイタリア戦線訪問をうながされ、新聞社の通信員資格で派遣されたようだ。だが、記事を配信するだけでは物足りなかったのか、まもなく、「第2の祖国」イタリアのために戦闘行為に参加するようになる。
 下位は、「決死隊の軍服を貰って第一線に出」、「激戦地の一つとして、丁度日露戦争の旅順に相当するグラッパの山地戦線」に行ったという。決死隊とは突撃隊とも訳されるアルディーティ(arditi、原意は大胆、勇猛果敢な者たち) のことで、最低限の武器を装備して単独あるいは少人数で敵陣に攻撃をしかけたり、斥候としての任務を負った特別編成の兵士である。いわば、もっとも血の気の多い軍人たちだった。

 「駐イタリア日本大使館とイタリア政府との取次役を自任していた」日本人文士が、いつの間にか1918年当時35歳の年齢で精鋭部隊アルディーティに義勇兵として加わるのである。全力でうさんくさい。脚注を見る限り藤岡の記述は下位自身の著書以外の文献にもあたっているようだが、その文献の出典は何なのか、どれだけ盛っているのか…といぶかしまざるを得ない*6
 さらに戦時中に下位はイタリアの愛国詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオと親交を結び、戦争終結後の1919年には、フィウーメ占領(19世紀の国家統一以来イタリアがその併合を望みながらも、戦後処理で依然「未回収のイタリア」とされた都市フィウーメ、現クロアチア領リエカをダンヌンツィオ率いる武装集団が実力占拠した事件)を果たした「司令官」ダンヌンツィオのもとを訪れ、熱烈な歓迎を受けたようである。藤岡はこのころより、下位が文学者から政治的アジテーターへ転身したと見ている。またダンヌンツィオとの関係から、下位はムッソリーニファシズム運動へと感心・接触の射程を広げ、日伊両国を往来しながら、著書、論文、講演など様々な手段を通じて、イタリア・ファシズムについて日本国内で精力的に発信するようになる。
 この下位が会津若松を訪れたことから、物語ははじまる。後編では記念碑寄贈をめぐる混乱について外務省資料をもとに記述したい。

*1:この辺の大衆文化におけるムッソリーニ・ブームについては山崎充彦が精力的に成果を発表している。山崎充彦「"ファシスト"ムッソリーニは日本で如何に描かれたか―表現文化における政治的『英雄』像」『龍谷大学国際センター研究年報』15号(2006年、PDF版あり);山崎充彦「イタリア・ファシズム、その日本における受容と表現形態―『英雄としてのムッソリーニ像』の生成」関静雄編『「大正」再考―希望と不安の時代』(ミネルヴァ書房、2007年)。「英雄ムッソリーニ」については、吉村道男「昭和初期の社会状況下における日本人のムッソリーニ像―英雄待望論の側面」『日本歴史』497号(1989年)も参照。

*2:この辺の記録はアジア歴史資料センターで外務省記録を読める。「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04012348200、文学、美術及演劇関係雑件/演劇関係(I-1-9-0-005)(外務省外交史料館)」。外交史料館によるダイジェスト的な説明はこちらを参照。

*3:以下の碑文は敗戦後で削り取られ今はない。碑の案内文によれば「占領軍の命による」らしいが、この辺の命令書が見てみたいところではある。

*4:藤岡寛巳「下位春吉とイタリア=ファシズム―ダンヌンツィオ、ムッソリーニ、日本」『福岡国際大学紀要』25号(2011年、PDF版あり)。もっとも、『日本ファシズム論争』的には下位のことは本来の目的ではないので、さらりと説明されるのはやむを得ない。

*5:『お噺の仕方』(同文館)。近代デジタルライブラリーで閲覧可能(リンク

*6:そういえば下位の軍隊経験を自分は調べていないが、年齢を考えると、日露戦争に出征していた可能性はあるかもしれない。