戦史研究の手つき―大木毅『明断と誤断 大木毅戦史エッセイ集』


 著者である大木毅氏はナチス政権期のドイツ外交史を専攻した研究者であり、「赤城毅」のペンネームで活躍中の作家でもある。また著者は学生の頃よりシミュレーションゲーム専門誌にドイツに関する戦史記事を寄稿し、歴史専門誌『歴史と人物』(中央公論社)の増刊、将兵の貴重な証言記録を多数収録していた太平洋戦争シリーズの編集助手をつとめた経験を持つ。
 
 本書はこのように戦史と密接な関係を持ってきた著者が、シミュレーションゲーム専門誌『コマンドマガジン』等に近年寄稿した数ページのエッセイをまとめた同人誌となる。同氏の戦史関係エッセイをまとめた著作としては、2010年に刊行された『鉄十字の軌跡』に続く二冊目となるが、前著が80年代の寄稿をまとめたものだったのに対して、今回のそれは最近のものをまとめたものとなる。

 目次は「戦史無駄ばなし」と題された二編を除くと、以下のとおりとなる(末尾発表年、扱っているテーマ)。

クルスク戦の虚像と実像(2008年:クルスク戦
新説と「新説」のあいだ(2008年:独ソ戦予防戦争説をめぐる論争)
冬のアイロニー(2009年:1941-42年の冬季戦)
作戦が政治を壟断するとき(2009年:シュリーフェン・プラン
SS中佐 パウル・カレル(2009年:パウル・カレル伝)
極光の鷲 たち(2009年:ドイツ第5航空軍とPQ17船団の壊滅)
ある不幸な軍隊の物語(2009年:第二次世界大戦時のイタリア陸軍)
百塔の都をめぐる死闘(2009年:七年戦争におけるプラハの戦い)

 本書の最大の特徴は、最新の海外の戦史研究の成果を取り入れた「通説」への疑義の提示であろう。
クルスク戦ヒトラーが無謀に企画したもので、さらにヒトラーが最新兵器配備に固執し作戦発動を遅らせたことでソ連軍の迎撃体制整備を許してしまい、さらに連合軍のシチリア上陸という事態に動揺したヒトラーが翻意したことで失敗に終わった。またこの戦いでは独ソ戦史上最大の戦車戦が戦われた」
独ソ戦は対独先制攻撃を準備していたスターリンに対するヒトラーの『予防戦争』であった。過去にこうした主張は否定されてきたが、新史料によってこの説の正しさが証明された」
「戦記作家パウル・カレルによる一連の独ソ戦著作群は独ソ戦の実像をドイツ側から余すことなく描いており、時代的制約はあるにせよ信頼に足る文献である」
「右翼(北方)に集中させた大軍がベルギーを突破し旋回、仏軍を独仏国境で包囲殲滅するはずだった作戦計画シュリーフェン・プランは、その大胆な戦略でドイツ帝国に勝利をもたらす筈であったが、左翼(南方)に兵力を分散させるという小モルトケの『改悪』によって、失敗に終わった」

 戦史に関心を持つ人間は、こうした「通説」に遭遇したことは少なくないと思われる(独ソ戦に関するそれは通説からは逸脱してしまうが…)。本書はこうした議論に、最近海外で発表された学術研究を紹介する形で、静かに反論を提示していく。
 たとえばクルスク戦ヒトラーの発案だったという通説は、参謀総長ツァイツラーの戦後の回想から生じたものだった。当時の戦時日誌を紐解いていくことで判明したのは、実際の主唱者は南方軍集団司令官マンシュタインであり、逡巡するヒトラーを説得した人間こそ、この構想を支持していたツァイツラーだった。
 同じようにクルスク戦の「ヒトラーの最新兵器配備への固執による作戦延期」という通説もまた揺さぶられる。中央軍集団戦区はそもそも輸送能力が不足しており、また作戦発動のためには活発なパルチザンの制圧に尽力しなければならなかった。一方南方軍集団戦区も装備が不足している状況だった。つまり作戦の早期発動は新型兵器の配備という問題以前に、多くの問題の積み重ねにより困難なものだったのだ。
 これらは本書で展開される「通説」への揺さぶりの一部だが、それ以外のの揺さぶりもまた説得力をもって迫ってくる。同時に旧来「通説」を形成してきたドイツ軍人たちの弁明能力の高さにも驚かざるを得ない。
 
 本書で紹介される「通説」への批判は、旧来軍人の回顧録等によって形成されてきたそれを、一次史料へのアクセスによって突き崩すという極めて常識的なものだ。日本で語られるヨーロッパの戦史イメージは、それこそ70年代をピークに多数翻訳された海外戦史作品によって形成されていると思われるが、「通説」のほとんどはその中に内包されている。紹介したクルスク戦をめぐる諸々の論点や、その他本書で紹介される「通説」への疑問を見るにつけ、過去来親しんできた様々な「通説」について、批判的に再吟味する必要があるのだろうと考えさせられもする。

 日本の学術研究において戦史研究という分野はあまり活発な分野とはいえず、その担い手はしばしば制服自衛官や、在野の人間に限定されてしまってきた。その原因は様々な理由によって語られようが、こうした海外の戦史研究の成果やあり方が紹介されることは、学問としての戦史研究のおもしろさもよく伝えてくれるだろう。

 まえがきによれば、著者大木氏は今後もこうした取り組みを続けていかれるとのことで、その取り組みを強く支援していきたいと考えるところである。なお、本書は下記のサイトで通販で入手できる。
http://a-gameshop.com/SHOP/bg001.html

*冒頭紹介した著者の経歴については下記の二冊を参照。

鉄十字の軌跡

鉄十字の軌跡

亡国の本質

亡国の本質