郷原・佐々木双方のある種の正しさ―孫崎享『戦後史の正体』を読む・補遺

 『朝日新聞』9月30日書評欄「売れてる本」のコーナーにおいて、佐々木俊尚氏が孫崎享『戦後史の正体』を酷評した。それに孫崎氏が激怒し、さらに郷原信郎氏が孫崎氏よりのスタンスから佐々木評を批判する、というスパイラルが発生している。

 そもそも「売れてる本」はイキのいい評論家やライターの類に書店に平積みされるベストセラーを読ませては酷評させ、亜インテリの溜飲を下げせしめるという中々趣味の悪い欄であり、佐々木氏の『戦後史の正体』評もそういった同欄の趣旨にたがわない。「米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという」「典型的な謀略史観」「日本の戦後史が、米国との関係の中で培われてきたのは事実だろう。しかしそれは陰謀ではなく、米国の一挙手一投足に日本の政官界が縛られ、その顔色をつねにうかがいながら政策遂行してきたからに他ならない」と叩き伏せ、「『今の日本がうまくいっていないのは米国の陰謀があったからだ』と自己憐憫と思考停止を招くのか」と慨嘆してみせる。

 この書評に対して噛みついたのが、著者孫崎氏自身と、著者と関係の深い郷原信郎氏であった。感情的に過ぎる孫崎氏のそれはさておくとして、郷原氏のそれは興味深い。
 「孫崎亨著『戦後史の正体』への朝日書評の不可解」と題されたブログのエントリーは佐々木氏が『戦後史の正体』をきちんと読めていないと真っ向から反論する。
 いわく「『米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきた』などとは書いていない。同書が取り上げている、アメリカの意図によるとする検察による政界捜査は、昭電疑獄とロッキード事件だけ」「『米国の一挙手一投足に日本の政官界が縛られ、その顔色をつねにうかがいながら政策遂行してきた』と述べているが、それは、孫崎氏が同書で述べていることと何一つ変わらない」「孫崎氏の戦後史には、『謀略』という単純な構図ではなく、政治、行政、マスコミ等の複雑な関係が交錯して、アメリカの影響が日本の戦後史の基軸になっていく構図が、極めてロジカルに描かれている」「標準的な見方であるように書評として掲載する朝日新聞の意図も私には全く理解できない」云々。
 どうもインターネットを眺めていると、この佐々木氏の酷評、郷原氏の反論のいずれかをもって鬼の首を取ったように騒いでいる向きを見かける。ネットでの勢いのよさはどちらかと言えば郷原側にあるようだ。著者自身ではない第三者が介入したというのが大きいのだろうし、朝日新聞のような大マスコミを叩けるという快感もこれを後押ししているのであろう。

 さて、佐々木氏と郷原氏の評はいずれが真実を捉えているのか。私が思うに、どちらもある程度までは正しいと思っている。なぜなら著者は、双方の読み方が可能なあいまいさやほのめかしのレトリックを駆使しているからだ。

「検察と米国」のほのめかし
 まず、第一の論点となっている「米国の意向を受けた検察の政界捜査は、『あらゆるもの』なのか『限定されたもの』として描かれているか」である。確かに同書内で米国の謀略だと明々白々に記載されているのは、昭電事件とロッキード事件だけである。では同書内で検察による政界捜査は、どのように描かれているのだろうか。リクルート事件についての記述を見てみよう。

 竹下政権と日米関係、リクルート事件の関係は305〜307頁あたりで描写が行なわれているが、この部分の文章の流れは興味深い。著者は次のような文章をこのページに並べている。以下に概要を並べよう。

1)「竹下政権は内政優先の内閣であり、日米関係に興味がなかった。国際秩序に対する軍事的貢献の意志も乏しかった」
2)「内政優先の竹下政権のスタンスは、米国にとって好ましいものではなかっただろう」
3)「リクルート事件は、その経過からして不思議な事件であった(経緯の詳細説明)」
4)「田原総一郎は、リクルート事件もまた、検察による疑獄だと主張している」

 この部分が面白いのは、「竹下政権が気に入らなかったアメリカが、検察を用いてリクルート事件を起こした」とは書いていないことである。上記に並べた1)〜4)の文章は、前段との関係を語られることなく並んでいる。正直に読めば、ただぶつ切りの四つの文章が並んでいるだけである。しかし読者は本の中に無関係な文書の羅列が続くとは普通は思わない。少なくとも、この部分を見ただけれども、1)と2)、3)と4)は繋がると考えるだろう。

 そして、竹下政権の記述に至るまでに、読者はすでに「検察は米国の手先である」と言わんばかりの記述を目にしている。著者は検察、特に政界捜査の尖兵となる特捜部は、その起源からしアメリカと深い関係にあったと論じ(pp.82-83)、また「米国の情報部門が日本の検察を使ってしかける。これを利用して新聞が特定政治家を叩き、首相を失脚させるというパターンが存在することは、昭電事件からもあきらかです」(p.80)とすでに語っている。そして次のようなリストを提示している(pp.83-84)。

米国とのあいだに問題をかかえていた日本の政治家(首相クラス)が、汚職関連の事件を摘発され、失脚したケースは次のとおりです。
芦田均   逮捕      昭和電工事件
 (在日米軍について「有事駐留」を主張)
田中角栄  逮捕      ロッキード事件
 (米国に先がけて中国との国交回復)
竹下登   内閣総辞職   リクルート事件
 (自衛隊の軍事協力について米側と路線対立)
橋本龍太郎 派閥会長を辞任 日歯連事件
 (金融政策などで独自政策、中国に接近)
小沢一郎  強制起訴    西松建設事件、陸山会事件
 (在日米軍は第七艦隊だけでよいと発言、中国に接近)

 確かに郷原氏の言うとおり、著者は「リクルート事件は米国の謀略」とは明言していない。しかし繰り返しになるが、読者は本の中に無関係な文書の羅列が続くとは普通は思わない。何らかの連関を見出そうとするだろう。検察は米国と関わりがある、昭電事件はその典型例だ、そういえば米国との関係に問題を抱えていた政治家が失脚したケースにはこんなものがある、リクルート事件もその一つだなあ…というぶつ切りの記述が続く中で、著者は竹下政権やリクルート事件についての決してリンクしているわけではない、四つの文章が頭の中で繋がるように誘導するのである*1
 これこそが著者の「ほのめかし」である。佐々木氏はこの「ほのめかし」のあいまいさを取り払い、誘導に全面的に乗る形で上記のような批判を行ない、一方の郷原氏は本書を昭電事件、ロッキード事件以外を米国の謀略とは明言していないと韜晦して佐々木氏を批判しているのである。

 他にも著者はいたるところでこの誘導のほのめかしと思われるものを使っているようにみえる。冒頭においてCIAの「謀略」の実在を語った後で述べられる「スパイは謎が多い人生を送ります。なにげなくコルビーをインターネットで調べてみました。水死しています。作家Z・グラントは、コルビーは殺されたといっています(p.13)」という記述もまたそれであろう。
 ここで著者は謀略のプロである元CIA長官のウィリアム・コルビーが怪死したという事実にさらっと触れ、「謀略」と「怪死」の関係を示唆している。以降、著者は日米関係の歴史を述べる本文中で、日米関係で暗躍した柴田秀利が、米国にとって面白からざる記述を満載した回顧録である『戦後マスコミ回遊記』を出版した翌年アメリカで死んだことや(p.177)、1994年に一見「対米自主」的にみえる樋口レポート(防衛問題懇談会報告)を主導した西広整輝防衛事務次官や畠山蕃防衛審議官がいずれも早逝したことを唐突に挿入する(p.321)。何のためにこのような記述をなしたのか。どういった意図によるものなのだろうかと感じざるを得ない。

佐々木と孫崎の日本政治像は同じか
 第二の論点である、著者と佐々木氏の日本政治像が同じであるか、という点に移りたい。「米国の一挙手一投足に日本の政官界が縛られ、その顔色をつねにうかがいながら政策遂行してきた」という佐々木氏の日本政治像を、果たして著者は描いているだろうか。

 私自身の見解としては、そのような記述を著者が明示的に行なった部分は、どこにもないと思う。先般のレビューでも書いたが、著者は執拗に堀田力笠信太郎といった人々と米国との直接的な人脈論や、米国主導の謀略にこだわってはいるが、日本側がそのような「米国の圧力」を意識し、親米派が具体的にこれこれこのように政策を捻じ曲げていったなどとは特段書いていないからである。
 著者は彼のいう「米国の圧力」に逆らった政治家がパージされたとは書いているが、親米派の政治家や官僚、マスコミたちが「顔色をうかがって行動した」とは書いていない。やはり謀略をやたらと強調する史観であるとの批判は免れ得ないのである。

 ただ、このような反応は郷原氏が佐々木氏にした検察謀略否定についての韜晦に近いものであることはお断りしておきたい。著者の記述から、そういったものを忖度して読み取れなくもない(最大限好意的に拡大解釈したならば、であるが)。しかしながら、検察についての「ほのめかし」のようにあざとい示唆が、鮮明にされていないこともまた事実なのである。
 確かにこういった要素を内在的に書くのは難しい。とはいえ検察についての記述では実に滑らかに筆を走らせている著者が、この種の要素を意識しているのであれば、そうした記述を十分に打ち出していないのは不思議である、ということは指摘しておきたい。
 
「ほのめかし」のニュアンス
 上記に書いたことをまとめれば、佐々木氏の書評は著者の検察についての「ほのめかし」に乗った上での酷評であり、一方の郷原氏は検察に関する「ほのめかし」を作為的に無視した反論である。また日本政治像についても、佐々木氏のいうような日本政治像は、郷原氏がいうほどには著者は十分に論じていない。郷原氏は検察についての記述には目をつぶりながら、日本政治像については最大限の忖度を行なうという、興味深いダブル・スタンダードを見せていると言うほかない。

 それにしても、この明確にはリンクしないような形で記述を並べて、読者にその解釈をゆだねるという「ほのめかし」ほど便利なものはない。著者に好意的な立場からすると、この「ほのめかし」は、決定的なことを書くことを避け、自らを守る策なのかもしれない*2。一方で批判的な立場からすれば、肝心なところで「そんなことを言っていない」と逃げを打つための手段としか見えないものとなる。

 何にしても、全体系を無視して本書を語るというのは、やはり問題であろう。佐々木氏の書評がファジーでずさんであること*3もまた事実だが、郷原氏の反論もまた感心できないものなのである。

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*1:評者は先般のレビューでこのリクルートについての記述を「示唆」と書いたが、まさにこの種の記述の曖昧さを感じ取ったからであった。

*2:この種の例としては、圧政下に言論人が寓話の形を使って間接的に時の政府を批判をするなどが挙げられよう。もっとも本書はそうしたギリギリの事例と違い、ほのめかそうとほのめかすまいとそんなに大したことを書いているとは思えないが。

*3:文意が反れるため特に言及しなかったが、私は佐々木氏の「米国の一挙手一投足に日本の政官界が縛られ、その顔色をつねにうかがいながら政策遂行してきた」という記述はあまり賛同できない。