取り壊し寸前・社会文化会館を訪問してきた

はじめに
 以前、毎日新聞日曜版で連載され、単行本化された興味深い日本政治ものの企画として『権力の館を歩く』がある。近代以降、特に戦後の日本の政治権力のありか…官庁、有力政治家の私邸、政党本部などを、現地取材と御厨貴先生の洒脱な文章でつづったものだ。ただの平板な名所旧跡訪問というわけではなく、間取りや外装といった、建物の構造に込められた意図や、政治の「距離感覚」がわかる、という点で、非常におもしろく、興味の尽きない本となっている。

権力の館を歩く

権力の館を歩く

 さて、同企画で扱われた建物の一つに、東京は三宅坂の社会文化会館がある。現在は社会民主党の党本部(全国連合)が入る地上7階地下1階のこの施設は、日本社会党が1964年に完成させた、彼らの安住の地とでもいうべきものだった。

 しかしながら年末、この施設が2013年4月以降解体されるとの報道があった*1。もともと老朽化が問題視されていたところに、東日本大震災で耐震性の問題が露呈し、党本部移転&解体が決まったという話だ。

 そこで、せっかくの年末年始の休みを使い、現地に行ってみた。なお、本稿の会館に関する歴史的記述は、注記のない限り基本的に『権力の館を歩く』に依拠している。

社会文化会館ことはじめ
 社会文化会館の設立は1962年に決定された。提唱者は書記長だった江田三郎。当時社会党本部は同じ三宅坂の木造2階ビルだった。江田のぶち上げたこの「デラックス・ビル」構想には冷ややかな声も多く、着工しても「二階くらいまで出来て、あとは鉄骨がさびるだけ」などと冷笑する声もあったという*2
 江田がこのようなビルの建設を推進した背景は定かではない。一説には、社会党分裂時代、左派として会合場所を確保するのにも苦労した経験(上記の木造ビルは右派が確保しており、左派は議員会館などで会合を持ったという)があったとも言われる。また一説では、構造改革路線の推進、さらにその発展形ともいうべき江田ビジョンを提示するなど、社会党の政権獲得に意欲を燃やした江田として、それにふさわしい「権力の館」を構築したかったからだとも言われる。構造改革路線、江田ビジョンといった政策は否定され、江田は書記長を辞することになったが、社会文化会館の建設という構想自体は生きた。組織局長に転じた江田は、会館建設特別委員会の副委員長として、執念を燃やすことになる*3

 幸いにして、木造ビル近くの土地を国有地借り上げで手に入れることができることになる。そうなると最大の問題は資金集めであり、江田は自らが在籍した神戸高等商業学校(現神戸大学)の凌霜会、東京商科大学(現一橋大学)の如水会といった学校OBの人脈を頼りに、財界からのカネ集めに奔走したという。実際、江田の金策がどこまで成功したのかについては不明な部分もあり、御厨本によれば機関紙『社会新報』では完成近くになるほど、カンパの呼びかけが多くなっているともいう。ともあれ当時のカネで四億三千万円と、一年二か月の建設期間をかけて、社会文化会館は1964年4月6日に完成・引き渡しが行なわれる。そして同月11・12日に引っ越しが行なわれ、5月9日に落成披露が行なわれた*4。設立当時は「(共産圏以外の)世界の社会主義政党で、こんな立派な本部を持っているところはない」ということで、「世界一」を自認したという。

 その後の社会党社会民主党の歴史はおおよそ知られるところとは思うが、この館の数的な絶頂期は「おたかさんブーム」の頃であった。土井たか子委員長のもと、1989年の参院選、1990年の衆院選で勝利をおさめた社会党は、衆院136名・参院67名、合計203名もの国会議員団を抱えていたのである。

外観を見る
 前置きが長くなったが、ということで社会文化会館を国会議事堂方面から撮影してみた。

 ボロボロの公団住宅のようである。


 さらに入口。「地震災害対策本部」「原子力発電所等事故対策本部」の文字があるが、これは社民党それを意味する。


 『権力の館』所収の写真のアングルを意識して、国道246号線に近い方から撮影する。同書をお持ちの方は見比べていただきたいが、明らかにボロボロ感が増している。震災の影響とはこれなのだろう。


 特にひどい部分をアップで撮影した。鉄筋が露出している。この傷は『権力の館』写真には見られない。




 2階から4階に設けられたバルコニーを撮影する。政権獲得の際、歓喜し訪れる国民に向けて挨拶するために作られたものだったという。1993年にその風景が見られたとは聞かないし、今となってはうらぶれた団地のようになっており、流れた赤さびもまたもの悲しい。


 なお、会館の玄関は三宅坂の細い道に面しているが、これは右翼団体街宣車等の活動からの防衛、さらに246号上に首都高環状線が建設されることを知っていたがゆえに、あえてこちらに設けたのだという。
 続いて玄関に入ってみる。

玄関を見る

 入口。「社会民主党全国連合」の文字が比較的あたらしい。


 玄関。第三代委員長であり、1960年テロに倒れた浅沼稲次郎の胸像や受付の電話が迎えてくれる。


 中に入る。反原発運動などのチラシが並べられていた。



 浅沼象と下に添えられた草野心平の詩「浅沼委員長の死を悼む」。「一九六〇年十月十二日/沼さんは倒れた でない 倒された/一本の刃で突如/けれども然し/その全生涯を行動してきたあなたの正義の夢は/沼さん 断じて死なせない/その夢を生かせ/その夢をたちきったものを/そのすべてをあばけ/日本の現在のために/未来のために/これから生まれる新しい歴史のために」とある。
 浅沼象は落成披露の際、除幕式が行なわれたもので、当時のニュース映像を見ていた自分にはひときわ気になっているものだった。河上丈太郎委員長は当時「浅沼君の胸像こそは、この新しい会館というホトケに入れられた魂。ヌマさんは死んだが、彼の魂をわれらの心の中に守っていこう」と静かに述べたという*5。引っ越し後もこの像は大切にされることを願いたい。


 玄関の案内パネル。産経新聞によれば、二階、四階のフロア以外は節電のため消灯し、「お化け屋敷」と化しているらしい*6。かつては会社の研修や、テレビドラマの撮影などに会館を貸出し、運営費用をまかなっていたそうだが、東日本大震災により耐震性が問題になり貸し出しが不可能となったこと、かといって建て替えを可能とする資金もなかったことが致命傷となったそうだ。

 社会文化会館の設立当時の自慢は、高速度輪転機を導入した1階の機関紙印刷工場と5・6階の三宅坂ホール(文化ホール)だったそうだ。今回は訪問できなかった(そしておそらくこれからもできないだろうが)三宅坂ホールは、映画演劇も可能なモダンスペースとなっている。会館は「社会党に誰でもこれるというムード」を作り、「この辺が新しい東京の文化センターとなることも夢ではない」とまで江田は語っていたという。自画自賛の感はないでもないが、社会党にとって会館が帯びていた使命の大きさは感じる。


 玄関を出て裏手に回ってみると、広報カーが二台駐車していた。


 なお今までの記述でも若干触れたが、246号・首都環状線の真横にこのビルは存在している。まったくスレスレで余裕がない状況である。


 会館横に、「社会文化会館」と銘打たれたボロボロになったバリケードが放置されていた。あまりに党勢や会館の現状を象徴するようで、もの悲しかった。

訪問終わって


 ついでに1957年完成、1966年まで自民党本部が置かれ、その後も田中派木曜クラブ)の事務所が置かれた砂防会館も撮影した。こちらも見た目は繕っているがボロボロだった。

 あまり難しいことはいえないが、社会文化会館に感じたのはひとえに「もの悲しい」ということだった。かつての夢が朽ち果てていく、そういうものを日本において象徴するような場所だった。

 ついでと思い砂防会館や現自民党本部や日本維新の会東京本部、みんなの党本部の近辺も眺めてきたが、「第三極」の雄である後者二党の本部は非常に簡素な貸しビルの一フロア、あるいは普通のマンションの一部屋だった。
 今日の浮き沈みの激しい政界では、「権力の館」などというものを作るのはリスクのあることであろうし、まして意味のあることではないと思われる。しかしながら、第三極の政党本部を見たあと、社会文化会館の帯びていた使命や、その開放性を思うと、もの悲しさだけでなく、なんとなく羨ましいというか、郷愁と言うか、とにかくそういうものもまた刺激されるのであった。

*1:社民党本部ビル、取り壊し決定…敷地は国に返還(読売新聞)

*2:朝日新聞』1964年4月5日夕刊

*3:なお、委員長は加藤勘十、中村高一が歴任したが、実務はほとんど江田がやっていたらしい。上記『朝日新聞』記事より

*4:朝日新聞』1964年4月5日夕刊、1964年5月10日朝刊

*5:朝日新聞』1964年5月10日朝刊

*6:社民党、哀れ貧窮問答歌〜ついに党本部退去へ 人事も膠着状態(産経新聞)